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〈月光院〉の豊かな人物造形と構成の妙――戦後70年の時代小説に足跡を残す傑作

〈月光院〉の豊かな人物造形と構成の妙――戦後70年の時代小説に足跡を残す傑作

文:菊池 仁 (評論家)

『花鳥』 (藤原緋沙子 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 まず第一に閑職であり、同心職の墓場と言われていること。第二に手にしているのは十手ではなく、橋の傷み具合を確かめるための木槌である。同心の花形である定町掛と比較するとあまりにも恰好悪い姿である。作者は探索方の役人を避けることで、平七郎の目線の低さと身軽さを人物造形に付加したのである。

 最大の工夫は“定橋掛”という役職を設定したことである。先の「隅田川御用帳シリーズ」では、物語の舞台を“深川”という町にすることから、その町の風情と佇まいから“縁切り寺”を物語を回す装置として設定している。つまり、史実の上に巧妙な仕掛けとなる虚構を綯(な)い交(ま)ぜる手法をとったのである。

“定橋掛”も同様の着想で、同心が江戸の人々に寄り添える役職とは何かを思案する過程で思い付いたものであろう。江戸の下町は江戸湾岸のデルタを埋立て、運河を縦横に作った市街なので、当然ながら橋梁が多い。江戸の人々にとって“橋”は生活に密着した存在であった。つまり、“橋”には人生の縮図がある。“橋”は離合集散の場である。“橋”を渡ろうか渡るまいか思案する。日本人ほど“橋”に人生の一コマをシンボライズする民族もいない。“橋”にはストップモーションをかけられた人生がある。作者はこの“橋”に同心という職業を重ね合せることで独自の物語を立ち上げたのである。両シリーズとも作者の着眼点の鋭さと、それを絶妙な設定へ転換する独特な手法が光っており、高い人気を呼び込む原動力となった。

 おそらく短期間で頭角を現した背景には、社会人学生として立命館大学文学部史学科で学んだことと、テレビドラマ「父子鷹」や「鞍馬天狗」等の脚本を手がけることで培った江戸時代を見る眼の確かさが成果となって表れたと思われる。

 これ以降、作者は“職業”を物語の中核に据えることで、多くの人気シリーズを世に送り出した。作者の非凡さは文庫書き下ろし時代小説が出版マーケッティング上、選択せざるをえないシリーズ化という足枷を、自らの小説作法の肥やしとして成熟化の道を歩んできたことである。

 例えば、もっとも新しいシリーズとして、二〇一一年に刊行が始まった文春文庫の「切り絵図屋清七シリーズ」は、江戸の人々の喜怒哀楽が刷り込まれた“切り絵図”を題材に、その制作に携わる人々の内奥を描くといった斬新な物語を紡ぎ出している。“職業小説”の極みと言える出来映えのシリーズである。

 もう一点、見落してはならないことがある。作者がデビューした二〇〇二年は、文庫書き下ろし時代小説の出版点数が大幅に伸び、拡大基調が本格的な兆を見せ始めた頃である。それだけにマーケットを支えてきた読者の間には、女性作家登場への渇望があった。当時、この分野で健筆を振っていたのは六道慧のみである。そこへ斬新な設定と、彫りの深い人物造形、流麗な筆致による情景描写を備えた作者の登場は、渇いた喉をうるおすのに充分な力を備えていた。作者の登場後、今井絵美子、和田はつ子をはじめ、高田郁、小松エメル等、有力な書き手が次々と現れ、華やかさを競っている。いわば女性作家がマーケットに活を入れたのである。

 実はこれと同様のことは戦後七十年の時代小説の足跡を見ていく上でも言える。戦後の顕著な特色のひとつは女性作家の進出である。戦前の時代小説は男性作家の専売特許であった。といっても戦後すぐ女性作家が登場してきたわけではない。

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花鳥
藤原緋沙子・著

定価:本体720円+税 発売日:2015年11月10日

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