東京駅の八重洲口に、長距離バスのターミナルがある。その前を通りかかるたびに、歩く速度を落としてしまう。足元に注意しながら乗り込む老夫婦、友人とはしゃぎながらバスを待つ女子。ビジネスバッグ一つで軽装なのは出張先へ出向くサラリーマンか。笑顔の人もいれば、感情を消したような人もいる。溌剌とした人もいれば、ぐったりと疲れを身にまとった人もいる。ターミナルには、様々な人生がある、といつも思う。本書は、その人生の一片を丁寧に切り取り、大事なものを包み込むような手つきで描き出している。
物語の真ん中にいるのは、新潟で深夜バスの運転手として働く高宮利一とその家族だ。利一は東京の大学を卒業後に就職した不動産開発会社が倒産し、家族とともに故郷にUターンしてきた。アレルギーのある息子と娘にとっても、故郷のきれいな空気は魅力だったし、何よりも、会社の歯車として働くよりも、自分の技量と裁量で稼げる職に就きたいと思ったからだ。けれど、同居した母親と妻は折り合いが悪く、半ばいびり出されるような格好で、妻は幼い子どもたちを置いて、家を出て行った。
それから十六年。子ども二人は成人し、息子の怜司は理系の大学院を出て、東京で就職。二十四歳になる娘の彩菜からは、ひと月前に結婚を考えている人がいる、近々先方の家族と食事会をしたい、と言われたばかり。母親は五年前に亡くなっている。母の息子であることからも、子どもたちの父親であることからも離れ、これからの時間は、自分のために生きてみてもいいかもしれない。東京には、かつて働いていた会社の上司の娘であり、今は一人で定食屋を切り盛りしている、志穂という女性がいる。彼女と二人で、新しい人生を始めてみようか。そう考えた利一は、もう長い付き合いになった志穂を、初めて美越にある自分の家に招くのだが、よりにもよって、志穂がやって来たその日、会社を辞めた怜司が実家に舞い戻って来たことから、それまでは穏やかに過ぎていた日々が、波立ち始めていく。
怜司だけではない。結婚を口にした彩菜もまた、仲間とウェブで立ち上げた、マンガとその関連グッズのショップの人気に火が付いたことで、実現しそうな夢と結婚の間で揺れ動く。そんな矢先、別れた妻の美雪が、利一が運転する深夜バスの乗客として現れる。美雪が手にしていた旅行バッグは、かつて彩菜が生まれたとき、利一が贈ったものだった。父の介護で新潟と東京を往復する美雪の姿に、疲弊の色を感じた利一は、思わず手を差し伸べる。
家族というのは、ともに過ごした時間の記憶である、と私は思っている。だから、美雪が家を出て行った十六年前で、利一と怜司、彩菜、美雪という“家族”は止まってしまっている。けれど、美雪が利一の前に現れた時から、時計は再び回り始める。もともと、憎み合って別れたわけではない利一と美雪の間にある、埋み火のような愛。置いて行かれた怜司、彩菜、それぞれの美雪に対する想い。
怜司は、祖母と母との確執に気づいていたため、自分が彩菜を守るから、ママは逃げて、と言ったことを、心の奥で悔やんでいる。もしあの時、妹だけでもママが連れて行っていたら、と。いや、そもそも学生時代に自分を妊娠したことが、母の人生を狂わせてしまったのかもしれない、と。彩菜は彩菜で、自分を置き去りにした母親を許せない。勝手に逃げ出したくせに、今更どうして姿を現したのか、と。そんな二人だったが、美雪の父で、二人には祖父にあたる敬三の介護を通じて、それぞれに失った美雪との時間に折り合いをつけていく。
ミッドナイト・バス
発売日:2016年09月23日