2016.05.24 書評

血盟団事件とは、一体何だったのか?

文: 平野 啓一郎 (小説家)

『血盟団事件』 (中島岳志 著)

『血盟団事件』 (中島岳志 著)

 血盟団事件が起きたのは、一九三二年である。――昭和の、しかも戦前の遠い出来事ではあるが、本書は冒頭に、その最後の団員であり、五・一五事件の実行犯の一人である川崎長光のインタヴューを置くことで、読者にこの不穏な時代へとアクセスする術を与える。

 こんな人が、我々の隣人として存在していたのかとまず驚かされるが、それは、事件直後に当時の人々が感じた衝撃とも通ずるものであろう。

 川崎は、地元の保育園の「名園長として慕われてきた」そうだが、その一方で、四元義隆のように、戦後、フィクサーとして政界に大きな影響力を持った団員もいる。

 歴史の年表を見れば、事件はただ、ある時、ある期間に起き、その隣には、もう次の別の事件が入れ替わるようにして並んでいるが、人間の寿命は、その行動を超えて遥かに長く続くものであり、影響は容易には消えない。そして、それは決して予測可能なものではなく、またコントロール出来るものでもないのである。

 川崎の肉声から筆を起こした著者は、首謀者の井上日召を中心に、団員一人一人の生の軌跡を丹念に辿りながら、事件を一篇の群像劇のように描き出してゆく。

 本書は、読み物としても非常に面白く、とりわけ、決行の日時を全国各地に散らばったメンバーに伝える役目を担った四元が、憲兵のマークを外すために行動を偽装し、結果、計画の実行そのものが危ぶまれることとなる場面などには、サスペンスがある。

 個々のメンバーには、内的動機があり、また彼らをテロリストたらしめた時代と社会の現実がある。

 著者はその両者を視野に収めつつ、主に事件に至るまでのプロセスに重きを置いて、周到な調査を行い、明晰な分析を加えてゆく。

 一読して非常に印象的なのは、血盟団のメンバーの多くが、病弱な少年期を過ごしている、という点である。川崎、小沼、古内、照沼、久木田、池袋、……と、いずれの生い立ちにも、そのような事実に触れた箇所がある。

 近代の政治権力は、前近代の生殺与奪権に基づく君主的な権力から、公衆衛生を通じて国民の生命をマネジメントする所謂(いわゆる)「生権力」へと変化した、というのが、フーコーの指摘以来の認識だが、西洋列強と肩を並べるべく、富国強兵のための政策に邁進してきた大日本帝国に於いて、彼らはその不健康の故に、社会から排除されるべき存在だった。実際、今し方名前を列挙した各々が、就職や徴兵検査といった人生の重要局面で、大きな挫折感を経験している。

 近代以降、機能的にひたすら細分化されてゆく社会の中で、職業選択の自由化は、言わば必然だった。そして、身分制度という「出自」がアイデンティティを保証する社会から、何をしたかという「行為」がアイデンティティの根拠となる社会へと変化した時、当然のことながら、職業は、「自分とは何か?」という問いへの一つの答えとなる。社会的に認知された、はっきりとした仕事を持っていないことは、自他共に不安であり、またそれが自分の生き甲斐と合致していないと、内面的に分裂が生じる。

 ところが、そこには一つのパラドクスがある。というのも、自分が何の職業に就くべきかを知るためには、自分は一体何をしたいか、つまり、「自分とは何か?」という自己の本質規定がアプリオリになされなければならないからである。

 行為こそがアイデンティティを確定するにも拘らず、その行為を社会的に可能とする職に就くためには、まずアイデンティティを確定しなければならないというジレンマ。――これが、近代以降の青少年の苦悩の根源であり、そして、“健康でない”という事実は、この循環的なアイデンティティの液状化からの脱出を挫折させてしまうのである。

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血盟団事件
中島岳志・著

定価:本体920円+税 発売日:2016年05月10日

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