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血盟団事件とは、一体何だったのか?

血盟団事件とは、一体何だったのか?

文:平野 啓一郎 (小説家)

『血盟団事件』 (中島岳志 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

 これと相関して、本書で注目されるのが、井上や古内の一種オカルト的な「病気治し」である。

 彼らは一旦、病という“不可抗力”によって、社会システムから排除され、失意と貧困を経験させられる。その身体には、国家の“役に立たない”という烙印が押されてしまう。彼らのパーソナリティそのものが、到底、社会に無批判に従順であることを肯(がえ)んじなかったという点も大いに強調すべきだが、いずれにせよ、そうした人々は、決して少なくなかっただろう。その時、彼らの受け皿となるべき救済のシステムは、肉体的な慰謝と精神的な慰謝との両方に亘(わた)っていなければならなかった。実際に、心の拠り所が与えられたというだけでなく、病気が治ったというのは不思議としか言いようがないが、そのオルタナティヴな「生権力」によって、死への墜落を免れた彼らは、複雑な感情を内に孕(はら)んだように見える。

 彼らは、自らを排除した資本主義の社会へと復帰することを拒む。絶望的な格差を生み出すその腐敗に対して、彼らは激しく憤っている。そして、今や健康を恢復した身体は、本来、就職を通じて得られたはずの社会的なアイデンティティに代わる何かを要求する。固(もと)より、彼らの“生まれ”はそれに値しない。その時、彼らの発想は、社会を超越して国家へと飛躍する。つまり、共同体の構成員として“真に正しい”、“本来的な”振る舞いをしたいと願望するに至るのである。

 なぜ、社会的な成功を収め、国家の然るべき役職にある財界人や政治家、或いは官憲――つまりは「支配階級」――よりも、自分たちの方が正しいと信じられるのか?

 一つには、虐げられた人々の不幸が歴然としていて、また自らも身を以てその理不尽を経験していたからである。しかし、更にもう一つ、著者が重要な点として指摘しているのは、彼らが、「宇宙の大原則」の神秘主義的な直感を得ていたという点である。「病気治し」は、それを象徴的に垣間見せるエピソードである。その非合理な思想は、近代の科学からも資本主義からも排除されたものであり、だからこそ、彼らが社会と対峙する上での思想的な足場となり得た。その言語化されたテクストこそが、彼らの場合、日蓮宗であり、その影響下にあった国家主義、或いは超国家主義だった。

 この大いなるものと孤立した自己との一体感、そして、それを阻害しようとする中間的存在という世界観は、天皇とその臣民、そして「君側の奸」といった発想までをも含めて、彼らの認識の基盤をなしている。彼らが、裏道を抜けて飛躍しようとする国家、或いは宇宙といった次元は、階層的には世俗的な社会よりも上位に存し、持続という意味では、決して一時的ではない、永遠性を備えている。こうした発想を、著者は、単なる私的なコンプレックスとして、心理的な次元に矮小化することなく、歴史と社会構造に根差した精神の問題として扱うことで、今日の我々にも有意義な視点を与えている。

 血盟団は、国家と個人との間で、市民社会を虚無化し、それを挟み撃ちにする。なぜなら彼らは、そこから何ら恩恵を被っているという実感を持っていないからである。現状を追認するいかなる動機をも欠いている。これは、テロリストについて思考する上で、決定的に重要な認識である。今日という一日と同様に、明日や明後日が訪れてほしいと願うならば、人はこの世界の持続のための努力を払う。しかし、そうでないならば、たとえ「大馬鹿」と見なされようとも、革命のための「破壊」を遂行しなければならない。暗殺は、その一環に過ぎず、通念的な倫理も、国家の法規も、「宇宙の大原則」という絶対的な視点からは、悉(ことごと)く相対化されてしまうのである。

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血盟団事件
中島岳志・著

定価:本体920円+税 発売日:2016年05月10日

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