「赤マント」が「週刊文春」に登場したのは平成二年に入ってからである。その後毎週二十三年間、通算一一二六回と連載が続いた。
平成二年(一九九〇年)といえば、椎名誠も四十代の半ば、最も脂が乗っていた頃だ。「週刊文春」の他に、もう一本の週刊誌。さらに毎日の新聞連載。文芸雑誌の小説が二、三本。それに月刊「本の雑誌」の編集長も務め、多忙をきわめていた。だがとにかく力がみなぎり、体力もあったので、内外の旅に、さらに焚き火と幕営生活を月に一、二回はこなしていた。
何度も旅に同行したが、あの頃は体中からオーラをストロボのように発してまぶしいくらいであった。どこに行くにも四百字詰め原稿用紙をバッグに入れ、どんな場所でも、児童用の画板の上で原稿用紙を広げていた。
原稿用紙をとりだし、一瞬宙をにらんだかと思うと、あとは没頭し一気呵成のごとく集中攻撃をかけるように、原稿用紙にモンブランの万年筆を叩きつけていく。二十数年前の椎名誠は、パソコンを持ってはいても、野外では自由に使いこなせなかった。
作家は原稿用紙に向かうと一切噪音も騒音も耳に入らない。深い沈黙の世界に入る。まるでいたこが乗り移ったかのように紙に文字を認(したた)めていく。
時の流れは早い。あれもすでに二十数年前になるのか、ある晩秋、岐阜の長良川に十名ほどでカヌーのツーリングへ行った。カヌーイストの野田知佑さんを中心に、怪しい探検隊の残党もまだうろうろしていた。そういえば珍しく、釣りの好きな作家の夢枕獏さんも参加していた。
河原の幕営はやはり焚き火がたのしい。夕食は寸胴の鍋にキャベツを半分に切り、ベーコン、コンソメと塩、コショウ少々と、簡単な味付けだが、人数が多い時はこれにかぎる。キャベツがとろけるようになるまで、焚き火の前で、和みの時間である。
都会では無愛想な顔をしている椎名も、焚き火を見つめ、シングルモルト・ウイスキーをシェラカップでチビチビと味わっている。時おり手下が焚き火に小枝を放り込もうとすると「いじるな」と低い唸るような声をあげる。
焚き火の周りには竹に刺した鮎や岩魚(いわな)が遠火でじっくり焼き上げられている。年齢と共に焚き火も好みが変化してくる。若い時はまるでキャンプファイヤーのように、薪をつみあげ、火のまわりを両手をあげ奇声をあげて踊り狂っていたが、しだいに渋い落ち着いた大人の焚き火になってくる。美しい焚き火は次の朝も燻(いぶ)し銀のごとく光っている。かさねた木は燃えつき、白い灰がほんの少しひっそりと残っている。焚き火も訓練をつみ技術を修得することによって一歩高みに入る。
さて翌日私はすごい風景を見た。テントの前で川を背に山の方を向き、朝の排泄の時のごとくお互いに距離をとり、野田、夢枕、椎名諸先輩たちが原稿用紙に向かってすでに仕事を始めているのだ。時間はまだうすぐらい午前五時前後だ。限りある人生を充実して生きていくためには、作家にとってはやはり原稿である。
少し二日酔いでも、とにもかくにも目がさめたらすぐに「原稿」だ。まだ体がボンヤリしているが、テントであろうが、高級ホテルであろうが、ぐずぐずしてはならない。作家にはせっかちな性質の人が多い。朝は顔を洗ったらすぐさまペンを持つ。作家はかぎりなく書き続けていく宿命がある。毎日のように休むことなく書き続ける。この継続こそが才能の証だ。
私は焚き火のまわりに転がっている酒ビンをダンボールにかたづけながら、切羽詰まったように原稿用紙に向かっている三人組を哀れみと尊敬がかさなりあった目で見ていた。「作家とはなにか」と聞かれたら、私は「原稿用紙の前に座り続ける人」と答えたい。長良川で見た悪夢のような光景は一生忘れることができない。
あれほど力のみなぎっていた椎名誠もあれから二十数年、すでに七十歳をすぎてしまった。もう体力も落ちているはずだと思っていたら、今回の「さらば新宿赤マント」の中でも自慢そうに、スクワット三〇〇回、プッシュアップ二〇〇回、腹筋一〇〇回を毎日続けていると書いていた。驚きというより化け物、怪物である。だが老眼だけには勝てず、ウキ玉野球のボールについていけず、しだいに打てなくなってきたと嘆いていた。
これまで二十三年間に書かれた「赤マント」シリーズを私なりに検討し分類してみた。その結果、一番多かったのは「酒と食べ物」にまつわる話で、全体の半分五十%を占めていた。続いて二十%が外国、国内の旅の話。さらに新宿赤マントだけに、地盤の新宿を徘徊しないわけにはいかない。新宿に行って「昔は良かった」が七・五%である。そして問題の焚き火に群がっているのが七・三%と、これもかなり多い。日本で一番、キャンプ、幕営、野外での煮炊き生活が多い作家だけに、これは頷ける。
私はぜひとも和歌山の備長炭組合は「炭火文学賞」「焚き火文学賞」をかかげ、賞の推薦委員に椎名誠を任命してほしい。日本からしだいに焚き火が追いやられそうな時なので、もう一度認識をあらたにしたい。
今まで書いてきたことをもう一度整理整頓してみると、旅、海、新宿、焚き火、糞と頑固一徹終始している。唖然とするのは、政治、外交問題、芸能、スポーツ、人の噂といったものがいっさい登場しなかったことだ。
椎名誠は作家業の一方で、編集することにも情熱をそそぐ。親分気質だから、事を起こすとすぐに仲間を集め、勇往邁進していく。
ここにきて、椎名誠コノヤロ編集「とつげき! シーナワールド!!」という、訳の分からない雑誌を年に二回刊行している。第一回目は「飲んだビールが5万本!」、二回目は「無人島はつらいよ」、三回目は「怪しいの大好き!」と続き、この秋に「旅ゆけばヒトモノケモノバケモノと会う」が編集される。著名な作家陣と写真に生気があふれているために、即日完売、満員御礼と爆竹の勢いの雑誌である。
今年の夏もきびしい暑さで、私の仕事にとっては、早朝がイラストレーションを描く勝負時である。朝食前の二時間が、脳も活性化しており、絵の発想も豊かになる。
農家は日の出と共に仕事が始まるが、作家も画家も昔とはちがい、やはり朝が勝敗をにぎる。才能がないと自負している人は、さらにまだ暗い午前四時には机に向かいたい。
ある朝、いつも財布と一緒にスマートホンを入れてある引き出しから、呼び出し音がグエガエと鳴った。手にして時計を見ると午前五時四十二分である。液晶パネルには黒々と「椎名誠」と表示されている。「あっオレだ」親分はいつになっても子分には「わし」か「オレ」で通す。話は次回の「とつげき! シーナワールド!!」の原稿依頼であった。「前にお前が赤い目をした女に貢がされた話、あれを十枚にまとめてくれ」「……」「強調して欲しいのは赤い目だ。蠱惑(こわく)的に書いてくれ」「……あの」「赤い血走った目だ頼むぞ」親分はそれだけいって五時四十五分に一方的に電話を切った。
「とつげき! シーナワールド!!」は「五十歳から八十五歳までのシニア世代の雑誌」と謳っているが、スマホをまだ触れない、うまく使用できない、落ち零れた世代を読者対象にしていくという。椎名誠は現在も頑にガラケー一本勝負である。
『徒然草』の中で兼好法師はあまり友達にしたくない人を七つあげている。
一、身分の高貴な人 二、若い人 三、病気をしたことのない身体強健な人 四、酒豪 五、武勇にはやる武士 六、嘘つき 七、欲張り
逆に大切にしたい友は、
一、物をくれる人 二、医者 三、知恵のある人
椎名誠と出会ったのは高校一年生、十五歳の時である。あれから悲しいかな五十五年がすぎようとしている。「お前とは今日限りで絶交」といった喧嘩は年中行事であった。親分はいつまでも親分で、子分が親分を越えることは最後までない。子分は品性のある親分を見つけることも大事だ。
たしかに椎名誠は多くの友人にめぐまれている。物事にこだわらずおおらかな性格で、もう一つ大切なのは、心の痛みにも敏感に反応できる人間だ。
「赤マント」が長く続いたのは、ここに秘密があると思う。
一日も早く「帰ってきた赤マント」の再開を望みたい。
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