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〈特集〉浅田版「新選組」 芹沢鴨のこと

〈特集〉浅田版「新選組」 芹沢鴨のこと

文:菊地 明 (幕末維新史研究家)

『輪違屋糸里』 (浅田次郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

〈特集〉浅田版「新選組」
〈対談〉糸里が生きた「輪違屋」の魂 高橋利樹(輪違屋十代目当主)×浅田次郎
〈インタビュー〉新選組が出ていったときはスッとしたそうです 八木喜久男(八木家十五代当主)
・芹沢鴨のこと 菊地明
侍にも優る気概をもった女たち 縄田一男

『輪違屋糸里 上』 (浅田次郎 著)

 幕末には志士たちの間で変名を用いることが流行しており、近藤勇とともに新選組の局長をつとめた芹沢鴨(せりざわかも)も、変名を名乗ったひとりだった。

 この「芹沢鴨」という名前が変名であることは、京都の近藤が文久三年に郷里へあてて書いた手紙に、「下村嗣司こと改め芹沢鴨と申す仁」とあることから明らかであり、同時にその本名も知ることができる。「嗣司」は嗣治、継次とも記されていることから、「つぐじ」と読んだものと思われる。

 鴨は諸記録にあるように水戸の出身で、現在の茨城県行方(なめかた)郡玉造町には、かつて芹沢村があった。この芹沢村は、室町時代に相模国から移り住んだ芹沢俊幹が居城を構え、当時の朝日岡という地名を改めたものである。その五代後の芹沢通幹の子供の時代に、水戸徳川家より二百石で召し抱えられ、分家が水戸藩士となり、本家は芹沢村の家を継いだ。

 その本家の芹沢家十代目を芹沢貞幹といい、貞幹の三男として生まれたのが光幹であり、これが芹沢鴨である。

 鴨の生年については、文政十年(一八二七)、天保元年(一八三〇)、天保三年と諸説があるが、長兄の興幹が文化七年(一八一〇)、次兄の成幹が文化九年の生まれであること、父親の貞幹が元治元年(一八六四)に八十歳で死亡していることから、文政十年とするのが妥当なようだ。

 芹沢家は当然、興幹が継いだが、天保十三年に継嗣がないまま死亡したため、養子に出されていた成幹が戻って家督を継いだ。このとき光幹も養子に出されており、その養家が松井村の神官である下村家だった。

 だからこそ、鴨は芹沢家の出身で、芹沢を名乗りながらも、本名は「下村」だったのである。

 嗣司という通称は、芹沢家が名付けたものか、下村家で名付けられたものかは不明だが、鴨が本名を名乗っていた記録が水戸藩にある。

 尊王攘夷活動が盛んな水戸藩にあって、藩内の有志が攘夷決行のために玉造等に結集し、その資金を各地の豪商より調達した。もちろん、強要である。彼らは「玉造勢」などと呼ばれ、それらの借用書のなかに下村嗣司の名前を見ることができる。

 この間、鴨は潮来(いたこ)宿で三人の同志と議論になり、彼らを斬ってしまったという。また、鹿島神宮に参詣したさいには、何が癇に触ったのか、手にしていた鉄扇で拝殿の大太鼓を叩き破ってしまったとも伝わる。かなりの短気だったらしい。

 玉造勢の行いを見捨てておくわけにはいかず、水戸藩では彼らの捕縛に乗り出し、鴨は文久元年(一八六一)二月二十八日に捕らわれ、投獄されていた。そして、斬罪梟首と(きょうしゅ)いう判決を受けるのだが、獄中の鴨は絶食し、指を噛み切って、流れる血で「霜雪に色よく花の魁(さきが)けてちりても後に匂ふ梅が香」(みやこのにしき)との和歌を短冊に認(したた)め、牢格子に張り付けて死期を待ったという。

 しかし、翌文久二年十二月二十六日、鴨は大赦によって釈放された。

 この大赦を幕府に進言したのが、同時に浪士を募集して治安の悪化した京都に送り込むという、浪士組結成を幕府に建言した清河八郎である。清河は獄中の攘夷過激派を大赦によって救い出し、みずからの攘夷運動に加えようとしていたのだった。

 それを知ってか知らずか、釈放された鴨は浪士組に参加するため江戸に出るのだが、このときから「芹沢鴨」と称したようである。

「鴨」の由来

 では、なぜ「鴨」と称したかというと、玉造にある地名説話によったものと推測される。

 芹沢村で暮らしていたとき、玉造郷校へ通っていたものと思われる。その通学路の途中に梶無(かじなし)川という川が流れており、その昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が梶無川から陸に上がったさいに、飛び立った鴨を弓で射落としたため、その地が鴨野と名付けられたという。これが現在の加茂であり、ここには鴨の宮という神社もある。

 芹沢村の鴨にとって、「鴨」という名前はごく身近なものだったのだ。

 浪士組の一員として同志の新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司と上京した鴨は、江戸に戻って攘夷の先兵になるという清河八郎の方針に反対し、近藤勇たちとともに京都に残留する。

 彼らは壬生(みぶ)の八木源之丞方を宿舎として、京都守護職をつとめていた会津藩の「預かり」という身分を得て結成したのが、新選組の前身となった壬生浪士組であり、鴨は近藤とともにその局長に就任した。文久三年三月のことである。

 京都での鴨については、彼らが離れ座敷を宿舎とした八木家の次男である為三郎が、風貌を「丈の高い、でっぷりとした人物、色は白く、目は小さい方でした」とし、尊王家らしく毎日、御所を拝していたことを語っているものの、それ以外は悪行ばかりが伝わっている。

 島原の角屋での宴席中、仲居が姿を見せないことに腹を立てて調理場にある瀬戸物を片っ端から打ち壊したうえ、七日間の営業停止を申し渡し、大坂新町の吉田屋に登楼したときには、思いのままにならない芸妓と、仲居の髷を切り落とし、それを肴に酒を飲んで溜飲を下げた。

 これらは鴨が酒乱だったためとされるが、四条堀川の菱屋で衣服をあつらえたさいには、度重なる代金の請求を無視し、菱屋の主人が少しでも当たりがいいようにと妾のお梅を差し向けると、彼女を強引に自分の妾にしてしまったという。

 これらの行状に加え、鴨は八月十二日の夜には三十人ほどの隊士を率いて生糸商の大和屋を襲い、翌日にかけて土蔵に収められた糸織物を焼き払うという暴挙に出た。大和屋が外国との交易で利益を上げていることに対する、攘夷論者としての怒りを爆発させたのだが、火を放つなどということは大罪であり、とうてい許されることではなかった。

 しかも、大和屋があったのは御所に程近い中立売通葭屋町であり、中立売通りを東に進めば、約八百メートルで御所の中立売門に行き当たる。「尊王」の言葉を忘れてしまったかのような蛮行であり、暴挙だった。

 短気というよりも、短慮である。朝廷は会津藩に意を伝え、会津藩は近藤以下を召し出すと、鴨の「処置」を命じた。処置とは殺害のことにほかならない。

 その直後、京都では公武合体派の薩摩藩と会津藩が提携し、王政復古派の長州藩を排斥するという「八月十八日の政変」が勃発する。このとき、壬生浪士組も会津藩の一員に加えられ、赤地に白く「誠」の文字を染め抜いた隊旗を押し立てて御所に出動した。鴨は近藤とともに小具足と烏帽子に身を包み、具足櫃に腰を下ろしている姿が目撃されている。これが鴨の、最後の晴れ姿となった。

 政変による混乱が落ち着いた九月十三日、まず鴨の腹心である新見錦が、祇園の「山緒」で殺害される。切腹と伝えられるが、近藤たちに追いつめられてのことであり、殺害と同じことである。

 そして十六日、新選組は角屋で総会を開き、やがて酒宴となった。鴨は同志の平山五郎・平間重助とともに途中で席を立って壬生に戻り、同行してきた土方歳三とともに八木家の本宅でふたたび酒を飲んだ。鴨には妾のお梅が待っており、平山と平間は馴染みの女を島原から連れてきていた。十分に酒がまわったところで、土方は彼らがそれぞれの女と寝入るのを確認し、八木家を出る。

 それから二十分ほどが過ぎ、土方は沖田総司・山南敬助・原田左之助とともに八木家に踏み込み、鴨と平山を襲撃するのである。鴨は初太刀を受けると、隣室に逃れようとしたが、入口の文机につまずいて倒れたところを斬り刻まれて絶命し、お梅と平山も彼らによって殺害された。平間は難を逃れ、明治七年八月二十二日に郷里の芹沢村で死亡する。

 鴨と平山は表向きは病死、隊内には長州の間者に殺害されたものとされた。そのため、丁重な葬儀を執り行い、壬生寺南門近くにある村の共同墓地に埋葬し、連名の墓碑を建立している。

 現在、鴨と平山の墓石は壬生寺の境内にあるが、これは共同墓地から移されたのち、風化したために再建されたものである。

文春文庫
輪違屋糸里 上
浅田次郎

定価:693円(税込)発売日:2007年03月09日

文春文庫
輪違屋糸里 下
浅田次郎

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