彼女がまだまだピチピチに若い時分、漏らす一言が私はことのほか好きだ。普通でつまらない、しかし若くて可愛い女の感覚である。
何かが違うし、何かが足りないのです。この人生は私にはふさわしくありません。
千春は、神的な存在ではなくあくまで凡人であった。どこにいてもどこか現実味がなくて、何をしても満たされない。世に女はたくさんいて、善意の女も悪意の女もいるが、善意のみの女も悪意のみの女もいないし、或いは娼婦も聖女もいるが、まるごと全て売り払う女も一欠片も売らずに済む女もいないわけで、多くの女が善意と悪意を両方持って、ある時には身体を売り、ある時には身体を売らずに存在する。美しい女も美しくない女もそうであり、それぞれは別のそれぞれになりえないが、自分の一時の価値を知ってしまえば、その後、外的な評価を寄せ付けない不足感を持ち続ける。私にはそれがよくわかる。
私もまた、父に美しい女に仕立てあげられた。私を溺愛した父は私のことを売り払いはしなかったものの、オカネを払って美しい女たちと楽しむ姿は見せつけられた。そして彼女たちよりもさらに価値のある私は父の膝に乗ってホステスや踊り子を眺め、10年後には父と同年代くらいのオトコたちに具体的な値段が付けられて取引されていた。その時、たしかに私の身体には価値が付随されてしまった。
千春と同じように、私たちも、自分が何が欲しいのかわからない。愛されたいだけでも、尊敬されたいだけでもない。オカネも時間も豊かな感性も欲しいけれど、それだけで満足はできない。自分に開いた空虚な穴には自覚的でも、何がそれを満たしてくれるのかはわからない。どんな男も穴に入っている間だけは満たしてくれるものの、オカネや愛や性液のようなものを吐き出したあとはつまらなく、退屈で、とるにたらない。それが政治家であろうと大金持ちであろうと、貧乏人のホストであろうと。
政財界のドンの子供こそ孕まなかったものの、私たちもまた、沢山のくだらない男に、若くて可愛いだけのくだらない女としてはした金で買い叩かれ、しかしそこに愉快さと快感を覚えながら流されて生きている。「好色一代女トゥデイ」と銘打たれた本書は、絶世の美女の数奇な運命をたどっているふりをして、いつのまにか、かつてスカートからムチムチの脚を伸ばしてエスカレーターを登っていた私たちの不安を言い当ててしまう。私たち、何かよくわからない私たちよりずっと大きいものの意志によって動かされているのかもしれない。それに身をまかせて堕ちてゆきたいけれど、ただで堕ちていくのは怖い。
あまりにくだらなくて面倒くさくて滑稽。欠落ばかりなのに逞しく、過剰でしぶとい。作者はおそらくそういう女を、愛してやまないはずである。
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