私はかつて女子高生だった。短いスカートからピチピチに張った脚を伸ばして、109のエスカレーターを登っていた。ちょうど私の父くらいの年齢のオトコはその脚を凝視した後、私を追い越して、私の乗ったステップの2つ上のステップで立ち止まり、私に話しかけてきた。彼は「見るだけ」といって金額を提示し、私を男子トイレに誘った。男のオナニーなんて初めて見たし、そもそもまだ処女だったけれど、その男が射精にたどりつくのは普通より多分早いと思った。
それが1999年7月だなんていうのは話ができすぎているけれど、確かに養老孟司氏が援助交際について「なにごとにもお金がついてまわると、人間ではなくて、お金が主体だと錯覚する」(日本経済新聞1998/9/1夕刊)と書いた翌年、私は1万円をもらった。私が存在するというだけで男が労働で得た対価から幾ばくかを支払う様子は痛快で、私は私の向かう方向を、おおまかに肯定していた。たとえそれが、オカネで私を征服する男の安易な自己実現と、男を慰める私の浅はかな愉快さで、ただ奇妙に均衡のとれた場所であったとしても。ここが私の身体の使いどころだろうと思うところに惜しみなく身体を晒して、感覚が赴くままに何か楽しいとか嬉しいとかそういうものを探した。
若くて可愛いというレッテルによって私は、陳腐であることを恐れず、愚かであることを恐れない境地に押し上げられていた。私は今でもその時の高揚する感覚を、胃の後ろに隠して生きている。だって、若くて可愛かった私の身体は一度もリセットされることなく手元に残るのだ。そして身体と交換したオカネを使い切った後も、私はオカネと交換した身体を所有し続ける。くだらない男に抱かれた身体のまま、30歳になりおそらく40歳になっても生きていかなくてはならない。当然、何をしても満たされないし、何をしても退屈だ。
島田雅彦作品では「美しい女」に翻弄される男たちの滑稽さが度々巧妙に描かれてきた。私は高い値段のつく女として、彼らの滑稽さを何とも愛らしく思って楽しむ。2004年に発表された短篇集『溺れる市民』の中に、関わる者たちの人生を狂わせる謎の女優が登場する。私が好きなのは彼女の美貌に取り憑かれ、最終的に人生を棒にふる直前のオトコが語る一言である。
苦い後悔の念がこみ上げては来たが、魔女のおっぱいを揉むことで元は取れたような気もした。
謎めいた女優にはほとんど顔がなく、しかしその魔力にとりつかれた男たちは彼女の周囲で滑稽に踊る。そしてその滑稽さを、悪くないような気もする、と半分肯定してあげることが、島田作品の男性への愛だとも思う。