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『お別れの音』解説

『お別れの音』解説

文:大矢 博子 (書評家)

『お別れの音』 (青山七恵 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 フジクラはこれまでも何度もお茶を入れていただろう。けれどお湯を注ぐ音が、この日だけは違って聞こえたのである。日常の何でもない音が、ある日ある瞬間だけ、ふと違って聞こえる。それはマミコの中にいつもと違う何かが生まれていた証拠に他ならない。「寂しい」とか「嬉しい」とか「後悔」といったようにはっきり名付けられる感情ではなく、その瞬間だけぱっと浮かんで、でもすぐに拡散して消えてしまうようなあやふやな揺らぎ、けれどいつもとは確実に異なる何かが。

 私が二十年も前のコーヒーメーカーの音を思い出したのは、そのときに私にいつもと違う揺らぎがあったせいだ。あれが聞こえたときの私はヘコんでいた。労わってくれる同僚の存在がありがたくて、でも労られることが情けなくて、嬉しいんだか悔しいんだかわからない感情を持て余していた。だからあの日の「ぱふっ」は、いつもとは違ってため息のように聞こえたのだろう。まさかそんなことを今になって思い出すとは。

 記憶は、視覚だけではなく音や匂いによって紐付けされている、という話はよく聞く。おそらく誰にとっても、そういう音に紐付けされた記憶というのがあるはずだ。黒板にチョークが触れる音、階段を降りるパンプスの靴音、踏切の音、バットがボールを打ち返す音……他の人にとっては何ということのない日常的な音が、ある人にとってはなにがしかの感情をかすかに呼び起こす特別なものになる。

 そういうわずかな揺らぎを、青山七恵は丁寧にすくいあげる。ほんのわずかな感情の起伏を、大切に言葉にする。感情そのものに名前を付けるのではなく、その感情がもたらしたいつもとは違う五感を描き出す。

 マミコは何も変わらなかったのだろうか? 答えは否である。一見何の変化もないように見えるが、日に日に高くなっていく向かいのビルが、昨日と今日は明らかに違う日だということを示している。ビル建設という昨日との違いがはっきり見える変化と、マミコの思考という目に見えないものの微妙な変化。その対比が本書のキモと言っていい。

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お別れの音
青山七恵・著

定価:567円(税込) 発売日:2013年09月03日

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