少々長くなったが、『月下上海』に描かれる国際都市上海は、こうした時代背景をもとに築き上げられた。
美貌と才覚を武器に、魔都上海を泳ぎまわるヒロインの、財閥令嬢にして女流画家の八島多江子は、身辺に出没する上海的妖気をはらむ多くの男たちと向き合う。
この過程と舞台となる上海の描写がまさに絢爛豪華、あたかも最新の4Kカメラで撮影されたハイビジョン映像のように精密で臨場感に溢れ、読む者を圧倒する。
夜の社交場として登場するシロスやパラマウント、アルゼンチナ、ディディースなどはすべて実在したナイトクラブやダンスホールで、出入りする客の国籍や人種、肌の色は、折々の世界情勢によって大きく変化した。変わらなかったのはホステスや黒服などの従業員で、故国を追われた元ロシア貴族の娘や、ナチスドイツから脱出したユダヤ系の男女たち。
パラマウントのようにホテル兼業の店もあり、店内にたむろする高級娼婦と話がまとまったり、踊りで気分が高揚した女性を籠絡した時などは、黒服になにがしかのチップを渡すことで、上階の部屋の鍵を手にいれることが出来た。
経営者のほとんどが、ロシア革命で故国を追われた白系ロシア人かユダヤ系ロシア人、あるいはナチスドイツから逃れてきたユダヤ系の人物であった。
夜の社交界に限らず、主な登場人物の大半が、それぞれの時代の状況や風俗、思想を反映ないし関わっている存在として描かれていて、物語の奥行きとリアリティに大きく貢献している。
これら多くの個性的で雑多な群像の中で、ひとり埋没することなく華やかに屹立する、八島多江子の爽快な傲慢さと優しさ。それにつきまとう憲兵の槙庸平大尉なるヒール役の存在が、当時上海に棲息した日本女性の強さと、男性のさもしさ弱さを代表しているように見えて、ふたりのやりとりや絡みあいが物語の進行にスピード感を与えている。
おもしろいのは折々の舞台回しとして登場する、文藝春秋の産みの親にして作家の菊池寛。彼がぼそりと洩らすコメントが、洒脱で現状分析に優れる彼のプロフィルそのもののように思えて、思わず笑ってしまう。
当時すでに文藝春秋は、日本を代表する総合雑誌としての地位を固めていた。そんな立場からか、菊池は戦地に赴いて戦場の模様を記録する従軍作家派遣にも積極的に協力。中国大陸を中心に、吉川英治、野村愛正、長谷川伸、小島政二郎、佐藤春夫など、その時代を代表する人気作家を引き連れて、中国大陸の深奥にまで足を伸ばしていた。
あの時代に忽然と現れた蜃気楼のような存在の上海。『月下上海』が卓越したエンターテインメントであるばかりではなく、光と陰が錯綜する歴史小説としても読めるのは、こうした多彩な登場人物を過不足なく出し入れした作者の、感性と文章力の賜物だろう。
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