二十世紀前半から半ばという時代を生きた日本人にとって、上海という都市名には、ある種の憧れと怯えがまとわりついていた。それは魔都という呼び名に代表される妖気と危うさ、華やかな放埒や無秩序などがない混ぜになった混沌であり、夢と絶望を伴う吸引力でもあった。
上海がこのような雰囲気を醸しだした裏には、一八四五年に開設された英国租界にはじまる欧米列強の居住地の存在がある。租界と呼ばれる占領地が町の中枢に居座り、そこに英米仏伊などの軍や財閥が入り込んで、それまで揚子江ぞいのありふれた田舎町にすぎなかった滬(こ/上海の旧名)という町を、一躍ヨーロッパ風の近代都市に変貌させた。
きっかけとなったのは、一八三二年(天保三年)、当時インドのボンベイに定住していたユダヤ系英国商社ダビッド・サッスーン商会が、インド、中国、日本への阿片専売権を獲得して上海に支店を開設。莫大な利益を得て急速に肥大化、財閥として不動の地位を獲得したことだった。
当時極東アジアへの覇権拡大をめざしていた帝政ロシアに対抗する意図もあって、インドからビルマ、中国へと触手を東に伸ばしつつあった大英帝国はこの動きを支援。ジャーディン・マセソン、バターフィールド・スワイヤ、カドウリなど、後にアジア屈指の財閥となる英国商社が、続々と上海や香港に拠点をかまえて阿片取引に参入した。
これに当時中国を支配していた清朝政府が強く反発、厳しい阿片禁止令を敷いた。一八三九年(天保十年)三月、清朝湖広総督林則徐が、阿片撲滅を唱えて阿片二万箱を没収焼却し、阿片商人追放を断行した。
一八四〇年(天保十一年)、英国はこれに対抗して戦端を開き、いわゆる阿片戦争が勃発した。結果は大英帝国の圧勝に終わり、一八四二年(天保十三年)、清は南京条約締結を迫られ、香港割譲と上海など五港開港を余儀なくされた。
こうした流れの尻馬に乗ったのが、大日本帝国である。
日清日露の両戦役で勝利し、さらには第一次世界大戦でも戦勝国側に列して、一躍世界の五大国なる立場に登りつめたと自任している日本にとって、欧米列強の橋頭堡的な存在に見える上海租界は、憧憬の対象であると共に、目障りな存在でもあった。
目と鼻の先にある中国を席巻している列強に対抗する意図もあって、日本は上海の共同租界(英国租界と米国租界)北部の虹口地区にどんどん日本人や日系企業を送り込み、事実上の日本租界を誕生させた。
とはいえ日露戦争にしろ第一次世界大戦にしろ、日本が戦勝国たりえたのは一九〇二年(明治三十五年)一月、当時の世界覇権国家大英帝国との間に締結された、日英同盟条約のおかげである。
条約締結からわずか二年後にはじまった日露戦争では、英国は同盟を盾に取って日本を支援。アフリカ沿岸や東南アジア経由で日本に向かうバルチック艦隊の、英領各地への寄港を禁じて補給や修理を不可能にし、日本海海戦の勝利に貢献した。
結果として日本は、大国といううたかたの夢と引き替えに、大英帝国の掌の上で、ロシアとの代理戦争を戦ったことになる。
その日英同盟も一九二三年(大正十二年)八月、英側の延長拒否によって消滅、日本は孤立した。
寄る辺がなくなった日本は、ナチスが台頭したドイツやファシズムを旗印にするイタリアに接近、枢軸を形成してかつての同盟国英国や米国と対峙した。その過程で勃発した満州事変や蘆溝橋事件につけ込み、清朝を倒して政権を獲得した国民党政権相手に、中国大陸の覇権獲得をめざす戦いを始める。
それを阻止しようとする米英ソとの関係も加速度的に悪化。ついに客観的には無謀としか言いようのない日米戦争に突入、世界の大半を敵にして戦う羽目に陥った。