何故に人は昔を懐かしむのだろう。それが良い思い出でも悪い思い出でもだ。
先日八十二歳になる母が、押入れから、昔我が家で使っていた黒電話を見つけだした。私はその黒電話に良い思い出がない。借金取りが毎日催促の電話を寄越してきては母が必死で謝っている姿を思い出すからである。当然、母も同じ思いであろうとふと目をやると、驚いた事に母は少し笑顔なのだ。母はその黒電話を通して自分の人生を見ていたのではないだろうか。自分の人生の半分ほどを一緒に過ごしてきたその黒電話に……。母にとっては、哀愁だけがただようただの薄汚れた電話ではないのである。
朱川湊人の『花まんま』を思い出す。
何年も前になるが、新幹線に乗った時、斜め前の男性が広げた新聞広告が目に入った。「『花まんま』直木賞受賞」との見出し。それがどこか印象に残っていたのだろう。何年かを経て、大阪の京橋に「京橋花月」がオープンした時、支配人からオープン記念に一ヶ月間芝居を見せたいので脚本を書いてほしいと言われた。京橋は下町なので中高年にも納得できる内容でとの条件つきだった。悩んだ私は、京橋花月のすぐ下の階にあった古本屋に行き、何か資料になる本はないかと見て回った。その時、『花まんま』を見つけたのである。
この本のおかげで、私は「かさ」という芝居を書き終えることができた。芝居の中で起こる偶然について、作者が都合良く書いているだけではと怖がっていた悩みが吹っ飛んだのだ。『花まんま』は、読むと世の中に不思議なことが実はたくさん起こっているかもと思わずにはいられない作品なのである。
『花まんま』は短編集である。いま流行りのサスペンスや、恋愛感情を抱かせるような話は一切出てこず、ただ不思議な話が六話、詰まっている。この不思議さに私は懐かしさを感じる。それは自分が体験した懐かしさではなく、実在しないがゆえの懐かしさなのである。
五年後に「東京オリンピック」の開催が決まったからか、最近、前回の「東京オリンピック」の映像を目にすることが多い。前回の「東京オリンピック」は一九六四年。五十一年前である。私が四十五歳なので、生まれる六年も前のことだが、不思議なことに、前回の「東京オリンピック」の映像を見て、懐かしく思うことがある。誰しも子供の頃、祖父母から昔話や神話を聞いて、まるで自分もその場所にいたような気持ちになったことがあるのではないだろうか。
懐かしさには幸福の匂いがする。母が戦時中に食べたカンパンの話、空襲警報が鳴っている中、花畑で髪飾りを作った話――戦中、戦後と生き抜いた人の話には悲しみが多い。悲しみが多いからこそ、ほんの少しの幸せを大事にしているように思う。高度成長期に生まれ育った我々には、個人の悲しみや苦労はあっても、世代を通して語れる哀愁が極端に少ない。戦中、戦後、大変な苦労をした人の話をどこか羨ましく思うあまり、勝手に自分の思い出のように脳にインプットしてしまうのだろうか。
『花まんま』は全編大阪の下町の話だ。しかも時代設定は高度成長真っ只中。私自身、生まれも育ちも大阪の下町であるため、なおさらこの本の世界に吸い込まれていったのかもしれない。そう思って、試しに東京の友人にこの本を勧めてみるといたく感動していたので、自信を持って二十代の本好きの後輩に勧めた。
ところが感想を求めたら、「話にドンデン返しがない」とか「ホラー的だ」など、あまり好評ではない。元来、小説は自分が読んで面白ければいいのであってその後輩にとやかく言うつもりはないが、彼の好きな作家を聞くとやはり流行りのミステリー作家だった。私自身二十代の頃にこの作品を読んだら、面白いとは思わなかったかもしれない。
ある程度の年齢になると、実際にはなかったこと、決して実現しないはずのことに懐かしさを感じることがある。
この本にはそれが詰まっている。
本来、懐かしさを感じる場面や感情はわかりやすいのが一番だ。しかし『花まんま』には泣けるセリフや泣ける状況は一切出てこない。そのかわり、読み終えた後、小説には出てこなかったはずのセリフや感情が心の中に湧きおこる。
具体的な思い出はアルバムを開けば出てくるが、体験していない思い出は誰かが教えてくれなければ得られない。もしそんな感情を味わってみたい方がいたら、『花まんま』をお勧めする。
後日、母が黒電話を捨てたと兄から聞いた。私は『花まんま』を本棚の一番奥に眠らせることにした。何かを忘れてしまった時、また、思い出させてもらえるように。
花まんま
発売日:2012年02月20日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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