二十数年もの間、笑いを生み出し続けるという大きなお仕事の底流には、才能だけでなく、先生の笑いに対する特別な愛着がありました。哲学すらも素材の一つでしかなく、お笑いに徹していることこそ、土屋エッセイの愛されてきた理由ではないでしょうか(これはあくまで私見であり、哲学書だと思って買っている方は、その調子で続けてください)。ただその一方で、自然とにじみ出てくるのが、哲学的考察に裏打ちされたシニカルなものの見方です。読んでいると、いかに人間というものが勘違いを起こしやすい存在か、また考えているようで何も考えていないかを気付かされます。こうした洞察は実験を必要とせず、そこに哲学の真骨頂があるわけですが、もっと即物的に人間がものを考える(あるいは考えられない)仕組みを探りたいと思うのもまた人間です。たとえばアルコールを飲むと刺激に対する反応が遅くなる、ということをわざわざ実験しないとわからない人間が私のような神経科学の研究者になります。もう実験したいことがなくなるとやや哲学者に近くなり、テレビで脳科学者と呼ばれます。
事実、哲学と神経科学には近いところがあります。数ある土屋節のなかで、私が特に好きなのが「あまり知られていないことだが、哲学者も考える。」という一節で、笑ってしまったあとで考えるとは何かという問いを投げかけられた気がしました。たとえばコンピュータが将棋をするとき、その機械は考えているのでしょうか。計算機科学者のエドガー・ダイクストラは、「機械は考えるかという問いは、潜水艦は泳ぐかという問いと同じく瑣末である」と述べています(土屋先生は少し違い、「土屋の本を買うこと以外は瑣末である」という立場です)。これは鋭い指摘ではありますが、最初の疑問はまだ残ります。実は神経科学者には、最終的にどうなれば脳の仕組みがわかったといえるのか、よくわからないまま実験しているところがあります。これは脳の仕組みとか、考えるとは何かといった問題が曖昧だからであり、もし哲学者だったら正しい問いの立て方が気になって実験どころではないでしょう。脳の数理モデルを作る理論神経科学という分野がありまして、理解のほうからアプローチする点でそれに近いのですが、面白いことにその分野の先生ですら、学生が実験に興味を持たないとぼやいていました。手を動かして実験することによってこそ、人が語り得るものの領域が拓かれるとの信念(および考えるより実験するほうが楽しいという都合)が、科学者を実験に向かわせます。いま本書を手に取られたあなたの場合も、よくわからないまま手を動かしてレジへ向かうことが、さまざまな可能性への扉を開くわけです。もちろん可能性の中には失敗や後悔もあります。失敗からブレイクスルーが生まれることを「セレンディピティ」などといいますが、理論と観察の双方から掘ったトンネルがいつか接続されることを期待しながら、多くの研究者が日夜失敗しているのです。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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