曽禰はただの学友であり、ただの学友ではない。軽々しくこんなことをすべき相手ではない。
それでよし、と言わんばかりに女がそっと金吾から離れる。丸髷の髪がにおいたつ。金吾はチョッキのえりを直し、気をつけをし、わざと堅苦しい口ぶりで、
「失礼した」
曽禰達蔵は、ひげが長い。
鼻の下から左右へ張り出しているが、顔そのものが小さいので、いかめしい感じがしない。そのひげの片方を手でさわりつつ、おっとりと笑って、
「あいかわらずだな。辰野君」
「あ、ああ」
「これで君も帰朝者だなあ。わが建築界には君ひとりだ。ぜひ東京にたくさん斬新な建物をつくってくれ」
金吾の狼藉など存在しなかったかのような泰然たる口調。救われたような気がしつつ、金吾は思わず、
「ちがうなあ」
「え」
「柄が、小さすぎる」
と、またしても考えるよりも先に口が出てしまう。達蔵が首をかしげて、
「小さすぎる?」
「そこは東京“に”じゃない。東京“を”とすべきじゃないか。ひとつひとつの物件など、しょせん長い道のりの一里塚。私はつまり、最後には、東京そのものを建築する」
胸をそらした。われながら大言壮語がすぎる、とは思わなかった。達蔵が、
「はあ」
目をぱちぱちさせる。金吾はふいに左右を見ながら、
「コンドル先生は?」
「え?」
「きっと横浜へむかえに来る、と手紙に書いてくださったのだ。先生は、約束をやぶるような方ではない」
「それは」
と口をはさんだのは、麻生だった。気のよわい男に特有の、熱い吸いものに息を吹くような口調で、
「先生も、うん、残念だとおっしゃっていた。何しろ鹿鳴館のほうが佳境でな。現場をな、うん、離れられなくなったとか」
「おお、鹿鳴館!」
金吾は、さらに声が大きくなった。話には聞いている。鹿鳴館という名はまだ公開されていないようだけれども、要するに、国家の外国人接待所。
三年前まで工部大学校の教師として金吾たちを親しく指導してくれた、そうして第一回の卒業生のなかから金吾ただひとりを祖国イギリスへの留学生にえらんでくれた建築家にして工部大学校造家学教授、ジョサイア・コンドル。彼がみずから設計にあたり、工部省営繕局が施工し、その工費もむろん全額、国から出ているという一大企画にほかならなかった。
もうじき完成だというが、完成すれば、こんにちの日本の最高水準を示すことになるだろう。金吾は、舌なめずりをした。そうして達蔵へ、
「いまから行こう」
「“いまから”?」
三人同時に、すっとんきょうな声をあげた。
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