達蔵がちらりと女を見て、ふたたび金吾へ、
「し、しかし辰野君、君はたったいま着いたばかりだ。よほど旅の疲れが……」
「船で寝たよ」
「だとしても、ほら、グランド・ホテルも予約してある。三、四日はゆっくり秀子さんといっしょに滞在して、つもる話も……」
「ああ、そうか」
金吾は二、三度うなずくと、女を見おろし、
「じゃあ秀子、ひとりで泊まれ」
達蔵がさらに声を大きくして、
「おいおい、それが新妻に対するせりふかね?」
「もう三年も経つが」
「君が結婚後すぐ留学に出たんじゃないか。少しは秀子さんの気持ちも考えろ。君の仕事は建築だけじゃない。子供もつくれ」
「ええっ?」
金吾がつい聞き返し、片耳をつきだし、その耳のうしろで手まで立てたのは、曽禰達蔵、元来そういう性質の冗談とは対極の位置にある男なのだ。
達蔵自身、口がすべったと思ったのだろう。十五の少年のように顔をまっ赤にして、肩をちぢめて、
「いや、それはまあ、“こうのとり”に聞くべきか」
ますます傷口をふかくした。大の大人が、何が“こうのとり”だろう。ぎこちない静けさが支配するなか、金吾は、
(曽禰君)
ほとんど感動している。この学友は、こんな不似合いな無駄口までたたいて自分の体を心配している。この横浜でゆっくり羽を休めさせようとしてくれている。
「……そうか」
金吾はつぶやき、うつむいた。達蔵はふっと息を吐いて、
「わかったか。辰野君」
「うん」
「それじゃあ行こうか。大きな荷物はあとで届くのだろう? 君が入国の手続きをしているあいだ、私がホテルでチェック・インの手筈を……」
「鹿鳴館だ」
金吾は、顔をあげた。さっきよりもいっそう力のこもった口ぶりで、
「東京の街づくりは、はじまっている。私が一日休めば、その完成は一日おくれるんだ」
「おいおい、辰野君……」
「ひとりで泊まれ。うまいものを食え」
金吾はそう九つ年下の妻へ宣告すると、前方へなかば駆け出しつつ、
「行こう!」
われながら、足がとまらない。背後で達蔵と麻生と秀子が、
「はあ」
「イギリスへ行っても、何ひとつ変わらんな」
「あれはあれで、秀子さんに気をつかってるんだ」
「ええ」
「あれでもう三十か。まるで子供だな」
「波風を立てんといいが」
「世間と?」
「さしあたり、コンドル先生と。先生は先生で激論家だし」
などと話している、そのことばの断片がかもめの白い抜け羽よろしく海風まじりに飛んでくる。悪口のようにも聞こえるが、金吾はこういうときむしろ、
(ふふん)
気がよくなる癖がある。
悪口もまた評判のうち。つらの皮が厚いというより、根が楽天家なのだろう。
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