「図書館?」と問うと、「そ、冷房強くて、いったん避難」と本のページをめくりはじめた。
しばらく里見のつむじを見つめて、立ち去ろうとすると「来れたんだね」と言われた。里見は本から顔をあげなかったが、私の反応を窺っているのを感じた。
「いつでも休めると思ったら、今じゃなくてもいいかなって気分になって。事情を話したらレポートも期限を延ばしてもらえたから」
「事情って?」
「父が死んだ。うちは父と二人だったから、まあ、いろいろあって」
里見がちらっと私を見た。父が死んだ、と私はもう一度、心の中でつぶやいた。こうやって言葉にするたび、父は過去になっていくのだと思った。頭上でさわさわと葉が揺れた。雲が流れて、影がいっそう濃くなった気がした。
「ゼミの先生に早く言いなさいって叱られたよ」
急に居心地が悪くなって、軽く笑う。「違うな、困られた。まあ、困るよね」
「そいつの勝手だ」
ふいに里見が言った。外見に似合わぬ低い声で。
「困るのはそいつの勝手だから、柏木は気にしなくていい」
驚いて、それからゆっくりと居心地の悪さが消えていった。心配も同情もしない里見がありがたかった。自分は父を知らない他人に寄り添われたくなかったのだと初めて気付いた。
「事実を言葉にするのはしんどい」
里見が言った。一語一語、自分に確認するように。記憶を反芻しているようにも見えた。
「言葉にしてしまったら、それを受け入れないといけなくなるんだから。早いも遅いもない。柏木が口にしたいタイミングでいいんだよ」
返事はしなかった。しなくてもいい空気があった。いつの間にか「柏木さん」から「柏木」になっていることに気付き、すこし嬉しくなる。
構内は静かだった。人が少なくて良かった、と思った。知っている女の子たちがいたら、私は愛想笑いを浮かべてしまっただろうから。里見は本に目を落としたままだった。おかげで、どんな顔でいようと私は自由だった。
木々の葉が青々と輝いていた。影が動いて、背中に熱い太陽を感じた。遠くで誰かの笑い声がした。里見の茶色い髪をゆるやかな風が撫でていく。あちこち汚れた私のスニーカーの、片方の紐が解けかかっている。そのそばで、蟻の群れがなにかを運んでいた。
世界がぐるりと自分のまわりにあった。そこに父がいないことを私の体はもう理解していた。いつか、私も里見もこの世界から消える。そう思うと、なだらかな気分になった。静かな水面にぽっかりと浮いているような心持ちだった。
「なんか、ありがと」
声をかけると、里見はページをめくりながら片手をひらひらとふった。
少し離れてからふり返ると、もうベンチに彼の姿はなく、木漏れ日がまっすぐな線を描いて地面に落ちていた。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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