前回までのあらすじ
「私」が父の友人だった全さんに再会したのは、父の遺品の整理をしに実家に帰った二十歳の夏だった。全さんは、無精髭を生やしたまま、左腕を血で染めて玄関先に立っていた。手当をすると全さんは帰って行ったが、「私」の中には全さんの気配が色濃く残っていた。翌日父の机の中を整理していたら、ED治療薬が見つかり「私」は衝撃を受ける。その翌日、全さんの実家である廣瀬写真館の前で、「私」は品の良さそうな女の人に出会う。彼女は全さんを訪ねて来たそうだが、まさか彼女が全さんを刺した人なのだろうか。
あの夏、こんなことがあった。
私たちはうだるような暑さを逃れ、近所の老夫婦がやっている定食屋で遅い昼食をとっていた。エアコンの効きが悪い店で、しじゅう扇風機の唸りが響いていた。私と全さんの間にはビール瓶があって、プラスチックの小皿に盛られた漬物が扇風機の風でひからびていくのを眺めていた。
全さんは泡のたつグラスを傾けるだけで、ほとんど食べなかった。
私ばかりに勧めた。大盛のご飯に味噌汁、茄子の煮物や生姜焼きなんかを汗だくで平らげていく私の向かいで、億劫そうに冷ややっこをつついていた。角が少しだけ欠けた豆腐がいつまでもそのままなのが気になった。
「女って嘘つきだよなあ」
煙草のけむりを吐きながら全さんは言った。吸いながら、もう次の煙草を巻いている。ブラウン管テレビから甲子園のバットの澄んだ音がして歓声があふれでた。日に焼けた球児たちの後ろに、ふくれあがった入道雲が見えた気がした。
連日の熱帯夜のせいで眠たかった。いつもの女自慢かと、咀嚼しながら頷く。
「女ってさ、いつも想っています、とか言うけど、いつもなわけないよな。たまにだろ。なのに、本当のことは隠して、いつもなんて言うんだよ」
全さんは記憶をたぐるように、ぽつ、ぽつと話した。ふだんはいいかげんなくせに、ときどき変に感傷的になった。そういう時、いつも目の前にいる私を透かしてどこか遠くを見ていた。
「私はそんなこと言いませんけど」
「おまえはな」
薄く笑ってビールを注いでくれる。けれど、やはり違うところを見ていた。
「当たり前ですよ。いつもって、うんこしている時に想われたいですか」
悔しくて、こちらを見て欲しくて、憎まれ口を叩いた。
「おまえ、食事中にうんことか言っちゃうの」
全さんが笑う。黄ばんだ歯が見える。「いいよ、うんこしてる時に想ってくれても。大歓迎」と、私をからかいだした彼から目をそらして外を見る。容赦ない日差しが商店街の輪郭を溶かしていた。首すじにひとすじ、汗がつたった。
「なまぐさい話をしてくるからじゃないですか」
怒ったふりをして茶碗で顔を隠しながらご飯をかき込む。
「いつも、とかいらないんだけどな」
ぼそりと、聞こえた。どんな顔をしてそうつぶやいたのか知らない。見なくてよかった気もするし、見てもなにも変わらなかった気もする。
ただ、その時、思った。
そんなことを考えるのは、あなたが「いつも」を求めたことがあったからではないんですか。私ではない誰かに。自分ではない他人に、手に入らないものを求めて、かなわないと知ったからですよね。
今ならわかる。
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