前回までのあらすじ
「私」が父の友人だった全さんに再会したのは、父が亡くなった二十歳の夏だった。全さんは左腕を血で染めて玄関先に立っていた。その翌日父の机の中を整理していたら、ED治療薬が見つかり「私」は衝撃を受ける。その後全さんの実家である廣瀬写真館の前で、「私」は品の良さそうな女の人に出会う。彼女は全さんを追いかけてきた恋人だった。彼女を見た「私」は人間の執着の恐ろしさを感じ、また自分と父を捨て、男と逃げた母親のことを思い出していた。それを察した全さんは、母親に会いに行くか、と「私」を誘った。
大学に持っていくナイロンのリュックを背負うと、ふだんとは違う感触がした。
筆記用具やノートの代わりに、替えの下着や旅行用ポーチが入っている。慣れない柔らかさを背中に感じながらスニーカーを履く。
日帰りだったら恥ずかしいので荷物は最小限にした。でも、さっき、全さんは確かに「今日は」と言った。今日はちょっとここ離れた方がいいだろ、と。今日は帰ってこないということだ。
父がいなくなってから、家を一晩空けたことはない。しかも、行先はあの女の故郷かもしれない。裏切りのように感じられて線香をあげることができなかった。
「いってきます」
居間の仏壇を意識しながら背中でつぶやく。家の中はひやりと静かだった。
玄関の鍵をかけていると、門扉を揺らす音がした。さきほどの女の人が戻ってきたのかと思い体がこわばる。
「遅い。とっくに三十分経ったぞ」
全さんの声にふり返る。濃いサングラスをかけた全さんが、Tシャツにジーンズ姿の私を眺めて「いつもと同じだな」と笑う。真上にのぼった太陽が作る短い影を、年季の入ったワークブーツで踏みしめている。「悪人面に磨きがかかってますよ」と、全さんを押しのけて外へ出た。
三木さんの運転する車で駅へ向かった。道中、二人はほとんど言葉を交わさなかった。私は脚立やら機材やらがひしめく後部座席に身を縮めて座り、助手席と運転席の様子を交互にうかがっていたが、途中から疲れてきてシートに体を預けた。
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