まず物語の中心にいる森和木ホリー。ジュニア小説の女王と呼ばれる高名な小説家。二度の脳梗塞を起こし、後遺症は残っていないものの、今は小説は書いていない。
森脇悠久子。ホリーの本名、つまり小説家になる前のホリーでもある。同一人物なのだが、何か読んでいて別人格のような気がしてしまうので、一応別に挙げておく。
簑嶋健夫。悠久子と結婚し、ホリーをともに生み出し、ずっとホリーの作家活動の実務面を取り仕切ってきたが、離婚後、再婚し、一男をもうける。
國崎真実。作家の卵で、ホリーの家に書生のように居候する。コロッケを揚げるのが異様にうまい。
宇城圭子。地方公務員だったが、三十代のはじめにホリーの秘書となる。書かなくなったホリーに代わって彼女名義でエッセイを代筆している。
編集者、鏡味氏。ホリーの担当者で、簑嶋に誘われてギャンブルに狂い、ホリーの財産を使い込んだことがある。その過去によって出世も見込めず(見込まず)、家庭も持っていない。
みな、それぞれの人生を生きているわけだが、このなかに二人、あなたの本当の人生はここにはない、とホリーに言われた人物がいる。ホリーの秘書的な役割をしていた夫、簑嶋はそう言われて追い出され、また、宇城圭子もそう言われて上京し、簑嶋のやっていた仕事を引き継いだ。では、ホリーにそう言われない人は、ちゃんと自身の本当の人生を生きているのか、というとそうでもないようである。ただ、彼ら(真実、鏡味氏)は、本当の人生は、と言われる以前に、自分の人生というものを持っていないようにも見える。
そして小説は、人生研究家を目指す私に研鑽を強いる。目指さない読者には、研鑽は強いないが、でもきっと考えることを要求してくる。
では何をもって「本当の人生」というのか? やりたいことをやることが本当の人生なのか。やらねばならないことをやるのが本当の人生なのか。やりたくないことでも自分らしくそれを成すのが本当の人生なのか。
そんなふうに考える過程で、私は至極無自覚に、「本当の人生イコール幸福な人生」「本当ではない人生イコール不幸な人生」と思いこんでいることに、気づかされる。でも本当にそうなのか? とはじめて疑問を突きつけられる。
だってこの小説には、「やりたいことを仕事にして、大成してああ本物の人生ってしあわせ」というような、あるいは、「やりたくもないことをやらされて、評価されないのは本当のおれではないからで、なんて不幸な人生」というような、シンプルな人はだれひとりとして出てこないのだ。だから、考えてしまう。一見、やりたいことを仕事にして大成したホリーは、本当の人生を生きていて、しあわせなのか? 考え出したら止まらなくなってしまう。