國崎真実を見ていると、またべつの疑問が浮かぶ。やりたいことと、向いていること、どちらがより「本当の」私の人生らしいのだろう? 彼女は小説を書くことを望んでいたはずだが、いつのまにかコロッケ職人のようになっていて、あれよあれよという間に人生が予期せぬ方向へと進んでいく。もし人生に計画帳というものがあらかじめあったとしたら、彼女の人生は事故レベルの脱線だ。
では宇城圭子は? 地方公務員として、たのしいもつまらないもなく暮らしていたときと比べれば、ホリーの屋敷にきて何かを書きはじめてしまう彼女は、それもまた脱線だとしても、このサンプルのなかでは私にとっていちばんわかりやすく本物の人生を得た気がする。でも、さて、それがしあわせかどうだったかはわからない。もちろん彼女にもわかっていないだろう。だとしたら、ホリー先生のあの予言めいた言葉に従った意味はなんだったのだろう?
簑嶋についての「本当の人生」もまた、わからない。ホリーが別れようとする際に夫に言った言葉の真意はなんとなく推測できるし、彼はホリーを離れ、べつの人生を得て本当によかったと、読者としても思い、実際の知人だったとしても思うだろう。でも、不可解なこともある。ホリーの元を離れた彼は、けっしてホリーと切れることはなく、また、自分の人生と呼べるほどに独り立ちもしていなかったのである。それでも彼は、彼の本来の人生を得たと言えるのか。人生をともにしないだれかに寄りかかって立っていても?
もっともむずかしいのは鏡味氏だろう。簑嶋にそそのかされてギャンブルで多額の金を使い込み、出世も見込めず、家族も持たなかった。何をしたくて生きているのか、何を目指して生きているのか、わからない。けれどもひょうひょうとたのしそうで、「人生」などという言葉なんて必要としていないみたい。
しかしながら、彼らの、思いどおりにならなかったり予測しないほうへ向かったりする人生を、まるで実際の友人知人のように見ていると、わかりかけてくることも、またある。
「本当の人生」というものがどこかに確としてあるわけではないということだ。パリ北駅という駅は確固として存在している。そこにいけばパリ北駅があるよと言われて、ここからでは遠いけれどなんとかかんとかいってみれば、私たちはちゃんとパリ北駅に着く。東駅と間違えたりするかもしれないが、いつかは着く。そして本当の人生は、そういうものではない。「ここにはない」と言われた簑嶋と宇城圭子の人生は、では「どこ」にいけばある、というものではない。ホリーは予言者のように未来の「どこ」を見ることがあり、それはまるで「北駅」みたいにはっきりしているが、でも、宇城圭子を見ればわかるとおり、そこにいけば本物の人生が待っているわけではない。
たぶん本当の人生とは、「北駅」的なものとは対極にある。こっちにいこうとしているのに、どこかで違う道に入ってしまっていたり。どこにもいくつもりもなかったのに、遠くに運ばれていたり。自分にではなく、人生のほうにスイッチが入っていきなり超高速で動きはじめたり。そういうときに、思いのままではない人生を、手放さず、見捨てず、見失わず、荒馬にしがみつくようにして離さずにいて、無我夢中で、ときにはかたく目を閉じて、もう降りたいと思ったり、もっといけると思ったり、でもそんな思いとは関係なく連れていかれて、うっすらと目を開けたら、ぜんぜん知らない、目指してもいない、見たこともない世界が広がっている――そのとき、私たちは本当の人生を知るのかもしれない。
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