この小説の語り口は非常にやさしいので、ちょっと気づきにくいのだけれど、じつは、「本当の人生」を手に入れようとするのはどれほど壮絶なことか、どれほど覚悟がいるのか、ということを、書いていると私は思う。私はこの小説を読んでいると、こう言われている気がしてしまうのだ。
人生の真偽と幸福は関係がない。
國崎真実が、簑嶋の息子、史男に、彼の母親が経営していた居酒屋跡に連れていってもらう場面がある。そこで彼女は、営業していた居酒屋「みのしま」をありありと思い浮かべる。私も、かつてそこに流れていた時間を見てしまう。そして心の奥底から思う。なんて、本当になんて幸福な光景だろう。人間の幸福って、こういうことをいうのじゃないか。こういう瞬間瞬間のために、私は生きているのではないか。そう思えるくらいの、あたたかい時間。
そして人間の体温と体臭に満ちたこの光景は、ホリーがひとり藁部屋で、文字を書こう、書こう、物語を先へ進めよう、としている光景と、対極にあるように思えるのだ。ものを書くことに取り憑かれたホリーが孤独で不幸で、簑嶋と再婚した妻が人間らしくて幸福だった、と言いたいのではない。ある人々には、最後まで創作と格闘するホリーこそ、しあわせだと言うかもしれない。でもそれはどこか観念的な言葉でしかないと私は思う。ホリーの幸福な時間というならば、書き続けるその姿ではなくて、ちいさな部屋でコロッケを頬張りながら好きな男といっしょに夢を見ていたときだと、私にはどうしても思えてしまう。本当の人生を得ること、自分を生きることは、幸福とはなんの関係もない、どちらかといえば闘いに近いものなのじゃないかと、私はこの小説を読んで思った。だから、こわい小説だと思ったのだ。
もちろんこわいばかりではない。どんな壮絶な闘いのさなかでも、私たちは(その闘いとは無関係に)あたたかい幸福な場面をいくらでも拾っていける、ということも、この小説はちゃんと教えてくれるから。
人生研究家になりたいという将来の野望のために、ずいぶん独断的な読み方をしてしまった。あまりに独断的なので、たった今読み終えた読者からも、作者からも、ひんしゅくを買ってしまうかもしれない。申し訳ないと思いながらも、私は、ホリーや宇城圭子や國崎真実、鏡味氏や簑嶋、本来はいない人たちと、まさに「見えないものが見え」るかのように生き生きと、人生について、幸福について、運命について、答えの出ない「続き」について、こんなにもたくさん、こんなにも深く、こんなにも忘れがたく語り合えたことを幸福だと思う。未だ人生の、格闘の途中にある私が拾った、紛れもないひとつの幸福だと思う。
人生研究家として著作を発表できる日が遠い未来にあったとしたら、参考文献の筆頭に、この小説をあげたい。
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