この小説を書いたのはわたし? それともあなた?
あなたはだあれ?
わたしはだあれ?
だれかおしえてくれないかしら?
四百字詰め原稿用紙三百枚分の没原稿(またしてもこんなに紙資源を無駄にしてしまった!)を前に、おまえそんなに森和木(もりわき)ホリーが好きなら弟子にならねえか、と鏡味(かがみ)氏に言われたのだった。編集部の一番隅の、本や紙の束が堆(うずたか)く積み上げられている机の前。そこが編集部の僻地であるのをいいことに机と窓の間のスペースまでも鏡味氏が勝手に利用しているせいで(まるで巣だ、と来るたびに思う)、通路としての機能は完全に失われてしまっている。鏡味氏からはわずかにアルコールの臭いがしているから、もしかしたら、ランチの時にビールくらいは飲んだのかもしれない。それでそんなことを言いだしたのかもしれない。
鏡味氏の声はつねに聞き取りにくい。おれだっておまえ、なにも好きこのんで、おまえの原稿、没にしてるわけじゃねえんだぞ、おまえがへったくそだからだぞ、おまえの書く原稿、古くっさいしな、だけどまあ、そこがそれ、國崎真実(くにさきまみ)って作家の持ち味なのかもしれねえしな、どうせ森和木ホリーの影響受けてるんなら、いっそ継承者としていっぱしになってみろよ、え?
で、で、で、でし、って、弟子って、弟子になるのってそんなに簡単に、なりたいからってなれるものなんですか、とあたふたしながら訊ねると、あ? ん? なれるよ。だって、おれだよ? おれが言ってんだよ(おれ様とは言わなかった)。なれるに決まってるじゃないか。ただし、弟子になったからといって、おまえがどれだけ学べるのかはしんないけどな、実際、今はもう、ホリー先生も原稿書いてるわけじゃないんだし、ようするに身の回りの世話とかさ、そういうのをする、いわば内弟子ってやつよ。あのな、ホリー先生、来週早々退院してくんだよ、で、まあ、リハビリの効果の甲斐なく相変わらず足、ひきずってるしな、しばらくは誰か近くにいた方がいいんだよ、通いの秘書、つうか、長年ホリー先生に仕えている宇城(うしろ)っつうのがあれこれやってるから、べつにたいしてなにかしなくちゃならないってわけじゃないんだが、夜中に一人にしておくのもあれだしな。手も足りないみたいだしな。一応、森和木ホリーの著作はいまだにアニメ化だの、映画化だので、絶えず動きはあるし、ぴかぴかのドル箱って時代は過ぎたとはいえ、それなりの存在ではあるわけだし、うちの会社としてもほっとけないのよ。近頃じゃ、海外でも人気だし。それに、だ。おまえみたいなのがそばにいて、いかに影響を受けたかを訥々(とつとつ)と語ってみろよ、そいつが刺激になってまた書く気になってくれるかもしれないぞ。そしたら、錦船(にしきぶね)シリーズの続きが読めるぞ。もうおまえ、それだけでやった、って感じしねーか。それにまあ、そんなことより、おまえだおまえ。おまえ、この一年、没ばっか、だろ。新人作家としての賞味期限もそろそろ切れるぞ。いいのか、それで。ここらで、一発浮上しとかないとまずいぞ。そのためにもだ、ホリーさんの胸、借りてみろ。担当編集者としての、心からのアドヴァイスだ。
なんかこう、だまされたんじゃないか、という気がしないでもなかったが、中学時代むさぼるように読んだ森和木ホリーの内弟子になるのか、なれるのか、だったら、と甘い誘惑に乗せられてうかうか引き受けてしまったのが五日前。