書評

SF、本格ミステリ、歴史時代小説──著者の持ち味が一冊で楽しめる

文: 末國 善己 (文芸評論家)

『蒲生邸事件』上・下(宮部みゆき 著)

 物語は、平成六年二月二四日、受験した大学をすべて落ちた尾崎孝史が、予備校を受験するため平河町一番ホテルにチェックインするところから始まる。このホテルは、陸軍を大将で退役し、二・二六事件が発生した日、軍部の独走を憂える遺書を残して自決した蒲生憲之の屋敷跡に建てられたもので、館内には、洋館だった旧蒲生邸と初老の蒲生憲之を写した写真も飾られていた。二・二六事件、自決といえば、決起に誘われなかった武山信二中尉が、叛乱軍とされた同志を討伐しなければならなくなった状況に悩み、妻の麗子と心中する三島由紀夫の短編「憂国」を思い浮かべる。本書の蒲生大将と「憂国」の武山中尉は年齢こそ異なるが、決起した皇道派の青年将校に近い立場とされているので、著者は「憂国」を意識していた可能性がある。

 上京した日、四ツ谷駅近くのファストフード店で夕飯を済ませ、コンビニで買物をしてホテルに帰った孝史は、フロントで「負のオーラ」をまとったかのような中年男を目にする。翌日、予備校の受験を終えて戻ってきた孝史は、非常階段の二階部分にいた中年男が、突然、姿を消すのを目撃する。孝史は中年男を探し回るが、当の男はエレベーターに乗りこんできて、さっき部屋から出てきたところだという。怪訝な顔をしている孝史は、フロントマンに、ホテルには蒲生大将の幽霊が出ると聞かされる。

 その夜、ホテルが火事になる。逃げ場を失い死を覚悟した孝史の前に中年男が現れ、現場から救い出してくれる。中年男にはタイム・トラベルの能力があり、気が付いた孝史は、二・二六事件が起こった当日の昭和一一年に連れて来られていた。

 著者は、江戸時代を舞台にした捕物帳、怪談、人情、政治ドラマを書き継いでいるが、何代将軍の頃というさりげない一文や、風俗描写などでだいたいの時代は類推できても、具体的な年号を記すことは少ない。これに対し本書は、物語の舞台を、内憂外患の社会不安を背景に軍部が力を持ち、日本が戦争へと舵を切りつつあった昭和一一年と明示し、当時を生きた人たちが何を考えていたかに迫っているのだ。

 現代人は、軍が発言力を強め、実際に政権を奪取するためクーデターを起こした時代というと、思想・言論・行動の自由が制限された暗黒の時代をイメージしやすい。ただ著者は、非常時でも懸命に自分の仕事をする蒲生家の若き女中ふき、患者のためなら決起部隊の軍人にも堂々と意見する医師の葛城悟郎らを登場させ、さらにクーデターを見にきた野次馬、市内の一部が封鎖されたので通勤できるのかを心配する勤め人の姿などを描くことで、昭和初期の日本が決して軍部が庶民を抑圧し、閉塞感に覆われた時代ではなかったことを明らかにしていく。


蒲生邸事件 上宮部みゆき

定価:本体680円+税発売日:2017年11月09日

蒲生邸事件 下宮部みゆき

定価:本体760円+税発売日:2017年11月09日