書評

SF、本格ミステリ、歴史時代小説──著者の持ち味が一冊で楽しめる

文: 末國 善己 (文芸評論家)

『蒲生邸事件』上・下(宮部みゆき 著)

 実際、永井荷風の日記『断腸亭日乗』の昭和一一年「二月廿七日」には、二・二六事件を見物に来た「弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれば金毘羅の縁日の如し」とあり、古川ロッパ『古川ロッパ昭和日記』の昭和一一年「二月二十九日」には、クーデターが「午後四時頃、漸く鎮定」すると「六時すぎから、丸の内の日劇・日比谷・地下等の映画館は興行を開始した、と、どしどし客が入って行く」とあるので、本書が丹念な考証を重ねて書かれたことがよく分かる。

 著者が、強圧的な軍人に反発を覚える人もいれば、国に命を捧げる覚悟を尊敬する人もいた時代として昭和初期を捉え、緊迫感に満ちていた一方で、意外とのんびりもしていた二・二六事件時の実像に迫ったのは、当時の人たちが、現代人と変わらない見識と価値観を持っていることを明らかにするためだったのではないだろうか。

 ここには、未来に何が待ち受けているか知らないまま、少しでも社会をよくする、自分の人生を切り開くなどするために、多くの人が悩み苦しんで選択した先に生まれたのが歴史であり、その結果を、現代の常識で善悪に色分けするのは果たして正しいのか、という問い掛けがある。この問題提起は、近代史の知識が乏しいまま昭和初期に送られた孝史が、自身の体験を通して常識を疑うようになるSFのパートが際立たせており、本書は、著者の歴史認識がうかがえる意味でも重要なのである。

 時間SFには、意図せず過去に送られるタイムスリップもの、悪しき歴史や重大な事件を回避するため過去へ行く歴史改変もの、何度も同じ時間を繰り返し正解の道筋を探すタイムループものなど様々なパターンがある。本書は、歴史の大きな流れは時間旅行者にも変えられず、たとえ東條英機やアドルフ・ヒトラーのような指導者を殺しても、すぐに別人が代わりになるので必ず第二次世界大戦は起こるという“歴史不変”を前提にしている。何度も過去に行った中年男は、善意である人物を助けても、別の人が死ぬ残酷な現実に耐えられず、歴史に介入するのを避けるようになっていた。

 中年男の懊悩は、時間旅行の能力を持つがゆえの特殊事情に見えるかもしれない。ただこれを、災害の被災者、あるいは差別や貧困に苦しんでいる人を救うため寄付をしたり、ボランティアを行ったり、あるいは目の前の困っている人に手を差し伸べたりしても、それは自己満足のための偽善に過ぎず、個人の力では社会の矛盾を糺せないと非難される状況に置き換えると、実は身近な問題に近いと気付く。

 確かに中年男のように、善意や思いやりが裏切られると絶望は深くなる。そこで退廃に陥り活動を投げ出すのも理解できるが、偽善と承知の上で、自分の活動がわずかでも社会の矛盾を解消するのに役立っていると信じて続ける道もある。著者は、正解がなく、どちらを選んでも厳しい現実が待ち受けている選択肢を突き付けているので、読者は自分ならどうするかを考えることになるだろう。

蒲生邸事件 上宮部みゆき

定価:本体680円+税発売日:2017年11月09日

蒲生邸事件 下宮部みゆき

定価:本体760円+税発売日:2017年11月09日