短編集『アメリカの壁』には、シミュレーション小説の表題作「アメリカの壁」をはじめ、ミイラ化しながらも現代まで眠り続ける古代マヤ人の秘密に迫る「眠りと旅と夢」、不可思議な事件に挑む大杉探偵シリーズ二作、そして、女性をテーマに一九七一年から書き続けた女シリーズの最終作「ハイネックの女」など、バラエティにとんだ六編が収録されています。
各作品の紹介の前に、この短編集そのものの特徴をお話しさせていただきます。
短編集を組む場合、ホラーばかりを集めたり、あるいはコミカルな作品を集めたりと、テーマを決めて組まれる場合もありますが、本短編集『アメリカの壁』は、一九七七年から一九七八年に執筆していた当時の最新作を集めています。そのため、この時代における小松左京作品の様々なテイストを味わえるものになりました。
ジュラ紀の地層から見つかる恐竜やアンモナイトといった化石からその時代の生物の生態が判るように、この短編集からは、一九七七年から一九七八年にかけての小松左京の創作活動の実態が浮き彫りになります。
父、小松左京にとってこの頃は、一九七〇年の大阪万博のプロデュースを終え、社会現象にまでなった一九七三年の『日本沈没』の大ブームも落ち着き、比較的穏やかな時代でした。とはいえ、専門誌である「SFマガジン」でのSF作品、「週刊小説」「オール讀物」といった中間小説誌での娯楽作品、また「小説推理」でのミステリ風作品と、同時進行で次々に発表していました。またほぼ同時期、角川書店の「野性時代」では、後に短編集「ゴルディアスの結び目」にまとめられる連載、さらに朝日新聞では「こちらニッポン…」の連載をしていました。
発表媒体ごとに読者の好みも異なるものです。それ故に、この時期に執筆されたものを集めた短編集の作品も、様々なテイストの集合体となりました。
小松左京の作品をあまり知らずに、表題作「アメリカの壁」を読んでから他の作品を読み進めると、いったいどういう作品集かと少し戸惑われるかもしれませんが、このような事情であったことをご理解いただければと思います。
また、この短編集でお読みになった中で、好みにあったものがあれば、それらに関連した小松左京作品も体験していただければ幸いです。
「アメリカの壁」
本短編集の表題ともなった「アメリカの壁」は、「SFマガジン」一九七七年七月号に掲載されました。ジャンルでいえば、現実世界にとてつもない出来事が起こるさまをリアルに描きだす、シミュレーション的要素の強い作品群の一つです(政治的な動向に重点を置いているためポリティカルフィクションともいえます)。
超大国アメリカが白い霧の壁に完全に覆われ、外部との接触が一切不可能になる話であり、アメリカを世界から完全に遮断させる状況を創り上げることで、国際政治、世界経済、軍事的バランスにおいて欠くことの出来ないアメリカ合衆国の真の存在価値と、そこに潜む闇を浮き彫りにしています。
この「アメリカの壁」と同じ系譜の作品をいくつか挙げてみましょう。謎の病原体で世界が滅亡の危機に瀕する『復活の日』(一九六四年)、異星人による地球侵攻に対して国どうしの相互不信から対応が遅れ世界が徐々に追い詰められてゆく『見知らぬ明日』(一九六九年)、自身の代表作ともいえる『日本沈没』(一九七三年)、世界中からほぼ全ての人が消え去る『こちらニッポン…』(一九七七年)、日本の中枢である東京が謎の雲に覆われ外部から完全に遮断される『首都消失』(一九八五年)などがあります。
いずれの作品も、様々な情報を駆使し、現実ではあり得ない極限的な状況を緻密に築き上げていますが、あくまでもフィクションです。しかし、『日本沈没』では、大規模地殻変動とそれに伴う様々な被害をあまりにリアルに描いていたため、一九九五年の阪神淡路大震災、そして二〇一一年の東日本大震災において改めて注目されることになりました。
小説はあくまでフィクションであり、現実ではありません。けれど小松左京のこれら小説群には、ある特徴があります。それは、現実世界を切りとった上での思考実験であり、また多くの場合、現実世界への警鐘の意図が込められています。
ああいうのは荒唐無稽って言われるけど、一種の思考実験として非常に自由でいいんじゃないか。思考実験は最初は哲学の方で出てきて、その次が量子力学。アインシュタインの相対性理論もそうなんだ。で、文学でもできないかと思ったときに、やっぱりSFなんだね。つまりあり得ないようなシチュエーションを考えることでアメリカとは何だとか、首都東京やそういう首都を形成している日本とは何だとか、首都東京やそういう首都を形成している日本とは何かだとか、いろんな現象がよくわかるという。
(『小松左京自伝』(日本経済新聞出版社)より)
これらシミュレーション作品の一つである「アメリカの壁」が発表からちょうど四〇年後の二〇一七年に、再び注目を浴びることになりました。史上最強の超大国アメリカ合衆国の新たなリーダーであるトランプ大統領の誕生が、そのきっかけでした。
「アメリカ・ファースト」を掲げ、ヒラリー・クリントン候補と接戦を繰り広げ勝利したトランプ大統領は、大統領就任後の二〇一七年一月二五日、密輸や密入国を防ぐために、メキシコとの国境に物理的な壁をただちに建設するという大統領令にサインをしました。
アメリカとメキシコを隔てる長さ三二〇〇キロに及ぶ長大な壁。現代版の万里の長城ともいえるこの壁の建設に関して、トランプ大統領は選挙中から公約としており、大統領令にサインをする少し前から、ネット上で、アメリカが謎の霧状の壁により世界から孤立する物語、小松左京の「アメリカの壁」を彷彿とさせるとのツイートやブログが現れ始めました。
また、二〇一七年一月二七日付の京都新聞が現在の状況を小説「アメリカの壁」と比較し、その建設費をメキシコに負担させるといった点は「小説よりはるかに奇なる悪夢のような現実だ」と紹介して以降、さらにネット上で話題が広がり、電子書籍版短編集『アメリカの壁』を発行していた文藝春秋は、二月一〇日、本作品を短編集から切り離し、単体の電子書籍として急遽リリース。そのことも話題となり、その後、毎日新聞、産経新聞、読売新聞など新聞媒体、さらにネットのニュース媒体でも数多く取り上げられることになりました。
一方、本国アメリカでは、一九四九年に発表されたジョージ・オーウェルの反ユートピア小説『一九八四』がベストセラー上位にランキングされたとのニュースが話題となっていました。日米両国でそれぞれ、遥か昔に書かれながら今を予見するようなSF作品が注目されていたわけです。
「アメリカの壁」が発表されたのは、先ほど触れたように一九七七年の「SFマガジン」誌上です。
戦後長く続いた米ソの冷戦構造、そして、泥沼化したベトナム戦争を経て、アメリカという若く、力に溢れた超大国が疲弊し、その自信を失いつつあった時代が物語の背景にあります。
この後の一九八一年、「強いアメリカ」を掲げ誕生したレーガン政権は、ある意味、この自信喪失したアメリカに対する反動により生まれたとも言えます。
「アメリカの壁」が書かれた一九七七年当時、次世代の爆撃機として開発されながらも試作機だけで終わるはずだったB-1爆撃機は、物語の中で重要なアイテムとなり、本短編集の表紙にも物語を象徴するかのように描かれています。
幻の翼として消え去る運命にあったB-1爆撃機。しかし強いアメリカを目指し当選したレーガン大統領は軍備拡大の方向に大きく舵を取り直し、結果、B-1爆撃機は復活して現在も実戦に備え配備されています。毎日新聞が「アメリカの壁」電子書籍化のニュースを告げた翌日の二〇一七年二月一〇日、同紙の夕刊に、写真付きでB-1爆撃機がグアムに配備されたとの記事が掲載されました。中国と北朝鮮における有事に対応するとの理由からです。あくまで偶然ですが、物語としての「アメリカの壁」とB-1爆撃機が呼応したかのような不気味さを感じます。
「“最後の有人戦略爆撃機”とよばれるB-1だ。――“これまでで最もよく考えられた航空機”とも言われたが、ソ連とのSALT交渉のあおりで開発中止になっちまった……。だが、最終開発時まで結局八機つくられ、そのうちの二機が、実験機として、NATOにひきわたされる事になっていた……」
(「アメリカの壁」より)
トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」とはアメリカの利益を最優先すること、そのためには手段を問わないことを意味します。メキシコとアメリカの国境を長大な壁で物理的に遮断するというのは、その判りやすいシンボルです。
一方、物語の「アメリカの壁」は、建築物としての壁ではなく、霧状の謎の物質が外部の世界とアメリカを遮断します。この霧状の物体により内と外が隔てられるイメージは、後の『首都消失』に引き継がれます。
そう、それと雲のイメージってのが昔からあるんですよ。戦争も終盤のころ、ボクは中学生で、神戸の川崎造船所に動員されていたんだけど、大阪は空襲にやられていてね。朝、電車に乗って造船所に行くんだけど、昼間、空襲があると、帰りの線路がやられちゃってるから、25キロぐらいの距離を歩いて帰らなくちゃならない。その上あちこちがまだ燃えているから、煙が雲みたいになって大阪の上空をおおっている。自分の家も燃えてるかもしれないという恐怖感もあるしね。
(毎日新聞インタビュー(一九八七年)より)
このインタビューで判るように、雲や霧は、小松左京にとって空襲のイメージと重なる、不吉なもの、不安なものの象徴だったのです。
アメリカ合衆国は、あまりにも豊かで強い力を持つため、その動向は世界人類全体に大きな影響を与えます。
米ソ冷戦時代は、二つの超大国の力が均衡しているが故に、世界を滅ぼす核戦争に突入できない、パクス・ルッソ=アメリカーナを形成し、歪んだ形でありながらも、大戦争のない比較的平和な時代を形成していました。
しかし、新たな世紀の幕開けの年でもあった二〇〇一年九月一一日に起きたアメリカ同時多発テロ以降、世界を襲う未曾有のテロリズムの嵐、新たな超大国としての中国の台頭など、アメリカはかつてないほど困難なかじ取りを余儀なくされています。
アメリカ合衆国という巨大な存在は、経済、軍事、外交、文化と様々な方面で全世界と結びついており、中でも日本は、その関係性がもっとも深い国の一つです。
力強き、良き隣人であるとともに、世界を滅ぼすほどの闇を抱えたアメリカ。九一一テロに対する報復としてのイラク戦争の惨状をみた小松左京は、次のような懸念を示していました。
最近はイスラムとアメリカがまさにああいう陰惨な結果になっているけれども、ブッシュのやり方は、やっぱりアメリカってまだ怖いところがあるなって感じだもんね。
(『小松左京自伝』より)
長く陰惨なベトナム戦争で自信を喪失し、萎縮しはじめた四〇年前のアメリカ。そして九一一以降、テロとの戦いに疲弊し、またグローバル化の波に翻弄されて生活基盤を失い、中産階級から没落した市民の不満が蓄積した現在のアメリカ。
二〇一六年の大統領選に関するインタビューにおいてトランプ支持者たちがしばしば口にした、今のアメリカに対する怒りと、その反動としてのトランプ候補への期待は、物語の中で触れられている、「アメリカはお人よしで、本来もっている豊かさを世界中から奪われている」という暗く冷たい被害者意識にオーバーラップしているように感じられます。
本作「アメリカの壁」は、混沌としつつある現代において、世界の命運を今なお握り続ける超大国アメリカ合衆国の本質を理解する上で、有効なツールといえます。物語として楽しんでいただくと同時に、日本を含む世界にとって最重要国であるアメリカをより深く知るために役立てていただければと考えます。
超大国アメリカを軸に今世界で何が起きようとしているかを把握し、解決の道を探る僅かな糸口になれば幸いです。
「眠りと旅と夢」
一九七〇年代前半から八〇年代半ばにかけての一〇年あまりの期間は、小松左京にとって海外取材の時代ともいえました。一九七二年から、雑誌「文藝春秋」において「歴史と文明の旅」の連載がはじまり、隔月で二ヶ国を回る海外取材は一年におよびました。そのすぐ後の一九七四年にはTBSテレビ「パスポート4」での南極取材、そして一九七七年からは、日本テレビの特番で古代文明を取材、アトランティスのモデルではないかと言われるエーゲ海のサントリーニ島、マヤ文明、イースター島のモアイ、ヨーロッパの巨石文明と世界各地を巡りました。
そんな中、この「眠りと旅と夢」にもっとも影響を与えたのは、一九七八年に放送された日本テレビ「小松左京マヤ文明の謎に挑む」での取材体験でした。
本作品におけるマヤの遺跡や埋葬品のリアルな描写、そしてその独特の文化が醸し出す空気感の再現は、自身の体験に根差しています。番組に関連して出版されたムック本の中で次のような想いを述べています。
僕は、遺跡、特にマヤの場合はそうなんですが、本当にそこに住みついてみることによってマヤ人の心がわかるんじゃないか、という気がしてますけれど……。
(『マヤ文明の謎』(日本テレビ放送網株式会社)より)
この旅を通じて、小松左京の以降の作品に決定的な影響を与える、ある出来事にも遭遇しています。
「眠りと旅と夢」と同じ一九七八年に発表された短編「歩み去る」の執筆の動機を語るなかで、次のようなエピソードがありました。
そのころ、ブラジルへ行った時に、コルコバードの丘の上で、若い日本人二人組とアメリカ人とカナダ人の青年グループがケンカしていてね。どちらも二〇代前半、二二、三ぐらいに見えたが。それが小説の冒頭に書いてあるように、パンアメリカン・ハイウェイを南下してきて、もっと南へ行こうという側とアマゾンへ行こうという側でケンカをしていたんだが、それを見ていて、もうおれたちはおいていかれると思った。僕は一九三一年の生まれだから、一九七八年だと五〇歳が目前だった。若い連中はなんの屈託もなく世界を飛び回り、そのうち宇宙へまで行ってしまうだろうと思ったね。
(『マヤ文明の謎』より)
小松左京は、空想の世界だけでなく、漠然とではありますが、実際に宇宙に行けると思っていたようです。いずれ、人類は必ず宇宙に本格的に進出するだろう、けれど、その乗船名簿に自分の名前が記載されることはない。この出来事が、その事実を突きつけてきたのです。
人として生まれたことによる制約、老いてやがて寿命が尽きるという制約が、長年いだいてきた夢を無にしようとしている。
その焦り、虚しさは、これ以降の小松左京の物語の端々から感じられます。
人としての限界を悟りながら、それでも、どうしても宇宙とその真実に触れたい。
そのアプローチの一つの道が、「眠りと旅と夢」に込められています。
眠り、虚空を旅し、壮大な夢のなかで生きるミイラは、小松左京自身の願望の投影であるともいえます。
宇宙に何とか触れたい、でも不可能かも知れないとの焦りはつのり、その絶望感は短編「氷の下の暗い顔」(一九八〇年)に集約されます。タイトル通り、寂寥感にあふれ、冷たい孤独が心に染み入るような作品です。
しかし、小松左京の宇宙に触れようとする思いは、ここで終わりませんでした。先行して発表していた短編「結晶星団」(一九七二年)のアイデアである人工知能に自らの人格を移すことで人の限界を超える手法を再び用い、自身の影ともいえる人工実存(AE)に時空を超越した旅をさせる物語を紡ぐことで「宇宙にとって人類とは何か?」というライフワークに再び挑みます。
一九八六年から連載が始まり、ついに未完となった遺作『虚無回廊』は、こうして生まれました。
「宇宙にとって人類とは何か?」のテーマを本格的に説いた小松左京の最初の作品は、日本のSFにおける最高傑作のひとつという評価の高い、『果しなき流れの果に』(一九六五年)でした。
様々な長編、中編、短編で、繰り返し、このテーマに挑み続けましたが、本作「眠りと旅と夢」は、遥か古代のマヤ人に託し、自らの夢の可能性を探り、ある結論に達した作品といえます。
このテーマに興味を持たれた方は、ぜひ『果しなき流れの果に』『神への長い道』『結晶星団』そして遺作となった『虚無回廊』をお読みいただければと思います。
残念ながら『虚無回廊』は未完のまま終わりましたが、人工知能の進化が急速に進むなか、人工知能による小説作りを試みている、公立はこだて未来大学に、小松左京の小説、エッセー、インタビューを含む、全テキストデータを提供しました。
このデータを元に、小松左京の分身ともいえる人工知能作家が、未完の大作『虚無回廊』を完成させる日が来るかもしれません。
今回の解説を書くにあたり、先述の番組ムック本『マヤ文明の謎』を調べたところ、メモの書かれた原稿用紙が中に挟まれていました(「魔法使いのピラミッド」〈ウシュマル〉紹介ページに)。
そこにはジャガイモ、トウモロコシなど様々な農作物が列挙されており、これら南米原産の作物に、アメリカ合衆国はじめ現代社会がどれほど依存しているかが改めて感じられました。
本短編集収録の第一作「アメリカの壁」は北米が舞台、第二作「眠りと旅と夢」は南米が舞台と、南北両アメリカを舞台にした作品が並びました。
トランプ大統領の、アメリカとメキシコ国境三二〇〇キロの壁が実際に完成するとすれば、北米と中米、南米が隔てられることにもなります。
南北アメリカの分断の象徴ともなりうる現実の壁の行方は、物語の壁以上に気がかりな問題です。
「鳩啼時計」
一九七七年に書かれたこの作品は、「週刊小説」に掲載された、ミステリ仕立ての作品です。
作品分類でいえば、後に紹介する女性がテーマの「女シリーズ」と、また、これも後ほど紹介する推理ものの「大杉探偵シリーズ」の中間的な位置にあたる作品といえます。
小松左京は本格的な作家デビュー前の一九五九年、ラジオの漫才台本を書きながら、それだけでは食べていけないので、産経新聞の文化欄で翻訳ミステリ雑誌評の仕事をしていました。この仕事のために「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」「ヒッチコック・マガジン」「マンハント」といった翻訳ミステリ雑誌に掲載されていた沢山のミステリを読み込んでいました。
この時に学んだミステリ手法を反映させた「鳩啼時計」ですが、女性の悲恋のエピソードも織り込まれ、まるでミステリのお芝居を見ているような印象です。そして実際に「三つの『明日』」というタイトルで舞台化もされました。
「三つの『明日』」は、「鳩啼時計」「明日の明日の夢の果て」「行きずり」の三つの短編をオムニバス構成でまとめ上げたもので、朝日放送の「必殺仕掛人」の名ディレクター、仲川利久氏の演出で、松尾嘉代、江戸家猫八、阿木五郎の諸氏によって一九七九年、神戸、大阪で二日公演された。当時出てきたばかりの大型TVプロジェクターなどをつかったが、一番心配していた第二部の、縄文時代から未来にわたる二千年以上の時間変化が、意外にうまくいったので、「SF演劇」についての自信をつよめたおぼえがある。
(「SFと舞台芸術」『狐と宇宙人』(徳間書店)より)
一緒に上演された「明日の明日の夢の果て」「行きずり」の二作品も大変切ない物語であり、この三つの作品をまとめ上げた本公演が、どのような舞台だったのか興味のあるところです。
小松左京は大学卒業直後、牧神座というアマチュア劇団に参加し、脚本を多く書き、また舞台デザインなども手掛けていました。
小松左京の作品の舞台化は多く、江戸時代の男性と現代女性の恋を描く「痩せがまんの系譜」は、一九九二年に「歴史に触った女」のタイトルで、神崎愛さん、永島敏行さんによりコメディータッチで舞台化されていますし、ある日突然、すべての大人が消え去り、子供たちだけで生きてゆく世界を描いた「お召し」は、東京放送児童劇団により一九七五年「みんないなくなる日」のタイトルで舞台化されています。さらには、小松左京のSFの最高傑作といわれる十億年の時空をまたにかけ繰り広げられる「果しなき流れの果に」は、なんと一九八八年にOSK日本歌劇団により大恋愛ミュージカルとして上演されました。さらには子供向けSF「狐と宇宙人」は、狂言の茂山千之丞さんの依頼で、小松左京自らが狂言台本に仕立てなおし、一九七九年に初演され、一九九八年、二〇〇三年と二〇一二年に再演されています。
本作「鳩啼時計」を含め、小松左京作品は、これからも舞台上演されることがあるかもしれません。もし機会があれば、どうか御贔屓のほどを。
「幽霊屋敷」「おれの死体を探せ」
こちらの二本は、大杉探偵を主人公に、いずれも「小説推理」というミステリ雑誌に掲載されました。
大杉探偵を主人公にしているため、大杉探偵シリーズと言われていますが、実は、この二本に先行して、シリーズ第一作の「長い部屋」という作品があります。
シリーズは全部で三本なので、三本とも一緒に掲載すればと思われるかもしれませんが、最初にお話しさせていただいたとおり、この短編集『アメリカの壁』は、一九七七年から一九七八年発表の作品ばかりを集めているために、この「幽霊屋敷」と「おれの死体を探せ」より少し前の一九七三年に書かれた第一作「長い部屋」は別扱いとなってしまったのです。
「鳩啼時計」の解説でも触れましたが、小松左京は本格的な作家デビュー前の一九五九年、産経新聞の文化欄で翻訳ミステリ雑誌評を担当し、当時、人気のあった雑誌「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」などを通じて、多くのミステリに触れていました。
この時の影響を強く受け、SF作家デビュー直後の一九六三年、「SFマガジン」で、刑事と警部のコンビが団地での人間消失事件の謎を追うという、大変ミステリ色の強い「蟻の園」を発表しています。大杉探偵シリーズのご先祖といった位置づけです。
実はシリーズ三作を通して読むと、主人公は同じ大杉探偵でも、最初の一作と残り二作は少し趣の異なる印象を受けます。
第一作「長い部屋」は、本格ミステリ風に殺人現場の見取り図を掲載したり、エラリー・クインばりの作者から読者への挑戦文が入ったりもしています。
筆者敬白
ここでちょっと読者にお休みいただいて頭の体操がわりにこの「長い部屋」の基本トリックをお考えいただくのはいかがでしょう。ここまででおわかりになった方はよほど慧眼の方だと思います。この奇妙な現象にたった一つの解決法があるのですが──ただし専門のミステリー作家でない小生の書くものですから、あまりフェアなものではありません。その事はおことわりしておきます。
閑話休題。
これは、第一作「長い部屋」の一節です。多分、これが当初の大杉探偵シリーズで、小松左京が一番やってみたかったことではないかと推察されます。
本格推理風から一転して、本短編集に収められている「幽霊屋敷」「おれの死体を探せ」は、軽いホラー的な雰囲気になりました。
まず「幽霊屋敷」ですが、これは小松左京お得意の消失ものになります。
小松左京はベテランのマジシャンさながらに、様々なものを作品で消し去ってきました。
世界中からすべての大人が消え、子供だけで生きてゆく世界を描いた「お召し」。
日本列島が海底に沈み、日本人が国土を失う『日本沈没』。
アメリカが霧の壁で覆われ、世界から失われる「アメリカの壁」。
日本の中枢である東京が巨大な雲に飲み込まれる『首都消失』。
世界中から、ほぼ全ての人がいなくなる『こちらニッポン…』なんて作品まであります。
さて、本作「幽霊屋敷」はオーソドックスに人が消え去る作品です。
気楽な山歩きの途中に人が消え去る事態を淡々と描きながら、心の芯から凍り付くような恐怖を醸し出す、小松左京の代表的ホラー「霧が晴れた時」と舞台設定は似ていますが、「幽霊屋敷」は、背筋の凍る恐怖ではなく、あくまで謎解きを楽しんでいただく作品です。
とは言いながら、普通の推理小説のような謎解きとはいかないのは、シリーズ第一作「長い部屋」の口上どおりです。
大杉探偵シリーズ最終作である「おれの死体を探せ」も、ホラーの雰囲気を漂わせながらも、かなりひねりの効いたコミカルな謎解き作品です。
小松左京は、作家デビュー前に産経新聞でミステリの書評を書いていましたが、同時期ラジオのニュース漫才の台本も手掛けていました。
「おれの死体を探せ」のヒロイン(?)である、秘書ネネ子とのバカバカしい掛け合いは、この漫才台本で鍛えた技術をいかしているようです。
また、成人向けの漫画を思わせるエロティックな雰囲気は、実は超能力をもったスパイの活躍を描いた「エスパイ」執筆時に磨かれたようです。
「エスパイ」は、一九六四年に「週刊漫画サンデー」というコミック誌に連載されたもので、連載中に編集部から、やれもっとエロを出せとせっつかれ、ほとほと困ったとこぼしていました。
とはいうものの、困りながらも「エスパイ」で学んだ手法が、多くの作品で応用できたわけなので、苦労の甲斐もあったというものでしょう。
ヒロインの色っぽさといい、バカバカしくも手のこんだ展開といい、本作と姉妹作品といってよいのが、時間犯罪から歴史を守る「時間エージェント」のシリーズです。このシリーズは、モンキー・パンチ先生に非常に素晴らしい形でコミック化していただきました。まるでルパン三世と峰不二子が、時間犯罪者相手に丁々発止の活躍をするような痛快な作品です。実はコミック版の最終回は原作から飛び出し、モンキー・パンチ先生のオリジナルストーリーで幕を閉じるはずだったのですが、連載誌の休刊でこの構想は実現せず、その代わりに、このアイデアは一九七八年公開の劇場版「ルパン三世」に生かされたとのことです。
「時間エージェント」は、お色気要素を完全にそぎ落し、NHKの少年ドラマシリーズの一つとして、「ぼくとマリの時間旅行」のタイトルで一九八〇年に映像化もされています。
「時間エージェント」の姉妹作ともいえる大杉探偵シリーズ。魅力的なヒロインであるネネ子といい、ちょい悪の青年探偵団といった趣のネネ子のボーイフレンド集団といい、せっかく良いキャラクターもそろったので、この路線でシリーズが続けばよかったのですが、残念ながら本作が大杉探偵ものの最後となりました。
設定だけでも生かし、コミックかドラマにでもなれば嬉しいのですが(解説者敬白。嗚呼、これではたんなる感想文だ。あまりに雰囲気の違う作品の集まった短編集は、解説を書くのも苦労します……)。
なお、大杉探偵がこの仕事に就く前の秘密に関しては、同じ文春文庫の『夜が明けたら』収録のシリーズ第一作「長い部屋」で明かされています。ご興味あれば、こちらも、あわせてお読みいただければ幸いです。
「ハイネックの女」
小松左京の作品群に、女シリーズと称されるものがあります。
タイトルの最後が「女」で結ばれるもので、一九七一年の「昔の女」から、この短編集に収められた一九七八年の「ハイネックの女」まで十の短編がこれに該当します。
このシリーズ執筆のきっかけについて、本人は次のように語っています。
あのころ、大衆小説作家の間でSF作家は女が書けんと言われているという噂があった。それならタイトルに「女」とつけたのを書いてやろうと思ったんだな。
(『小松左京自伝』より)
人生の秋になっても素敵な女たちがいるとの想いで書かれた「秋の女」。
小松左京が旅先で聞いた女性の悲劇的な話と、学生時代に付き合っていた年上女性の切ない想い出が織り込まれた「旅する女」。
女シリーズのヒロインたちは、いずれも愛しい存在でありながら現実の世界で翻弄されている、小松左京の記憶に刻まれた様々な女性たちをイメージして描かれています。
しかし、女シリーズの最後を飾る、本作「ハイネックの女」は、先行して書かれた作品と随分違う趣となっています。
小松左京のもう一つの女性観を表しているのが、我々の世界と異なる世界の媒介者として底知れぬものを感じさせる一種異形の存在としての女性を描いたホラー作品群。「黄色い泉」や「怨霊の国」あるいは、「ゴルディアスの結び目」などがこれに該当しますが、「ハイネックの女」も女シリーズよりも、こちらの作品群に近いのではと感じられます。
いや、あれも僕の女性に対する逆説的哀愁の現れなのよ。僕は女性の襟足の美しさに魅力を感じていたんだけど、ハイネックがはやりだした。なんで襟足を隠してしまうんだろうと思って、いろいろ想像したわけだ。
(『小松左京自伝』より)
というのが本人の弁です。
単独作品としては、ゾクゾクした雰囲気を存分に楽しめる作品です(女シリーズの他の作品をお読みになった方は、落差に驚かれるかもしれませんが)。
最後に。本短編集は、小松左京作品としては、三五年ぶりの文春文庫への復帰となりました。
アメリカ史上、かってないほど強硬に自国の権益を主張するトランプ大統領の誕生。過去の小松左京作品を知る人たちによるネット上での「アメリカの壁」との類似性の指摘。電子書籍版における反響(二〇一七年九月一一日には、アマゾンの電子書籍ランキング「日本の小説・文芸」で、単独版が一位、短編集版が二位、無料解説が三位となりました。「アメリカの壁」がベスト3を独占した形です)。これらが一つの流れとなって、長らく絶版となっていた『アメリカの壁』が、こうして紙の書籍としての姿を取り戻したわけです。
「紙の書籍」と断りをいれなければならないことに、二一世紀という時代を感じますが、振り返ると、今回の一連の流れそのものが、まるでSF小説のプロットのようです。
小松左京は根っからの心配性でした。本書に収録されている「眠りと旅と夢」のような人類と宇宙との壮大なイマジネーションを紡ぎだす一方で、心配性であるが故に、あり得ないほど極端な危機的状況を設定し、その時に何が起き、どうすべきかをリアルに描いた『日本沈没』『復活の日』といったシミュレーション的な作品も数多く生み出してきました。このシミュレーション的作品に関しては、小松左京は次のように語っています。
皆がよく知っているこの世界とフィクションを重ね合わせてみますと、この世界だけを上から覗いているだけでは見えてこない、虚数空間に隠されていたもう一つの性格がでてくる。この二つを合わせれば、何か構造的な本質が見えてくるのではないでしょうか。
(「シミュレーションとフィクションについて」学会誌『シミュレーション&ゲーミング』より)
SFというフィクションのフィルターを現実世界にかけることで、現実世界の奥深く隠された本質を浮かびあがらせることができる。恐るべき事態が起きるなら、その本質を摑む必要があり、出来るだけ多くの人が、その本質を知ることで、事態の回避や被害の低減に繫げて欲しいという、心配性の小松左京の切なる願いが込められています。
本短編集に収められた様々なテイストの作品をエンターテイメントとして楽しんでいただくとともに、物語を通じて垣間見えた現実世界の本質を、心の隅にとどめていただければ幸いです。
四〇年も前に書かれた作品を集めた短編集が元の姿を取り戻し、今、こうしてお読みいただけることに、遺族として感謝の言葉もありません。