調律師をモチーフにした優れた仕事小説であると同時に、本作は、青年の成長物語である。そして、外村の自分探しの物語。
音楽の下地がないことに、外村はコンプレックスがある。自分に調律師としての才能があるのか、ちゃんと一人前になれるのか、良い仕事ができるのか、常に不安を抱え、葛藤する。
「一弦ずつ、音を合わせていく。合わせても、合わせても、気持ちの中で何かがずれる。音の波をつかまえられない。チューナーで測ると合っているはずの数値が、揺れて聞こえる。調律師に求められるのは、音を合わせる以上のことなのに、まずはそこで足踏みをしている。」
仕事を始めたばかりの外村のとまどい。そんな彼に、あこがれの板鳥は、「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです」と諭す。チューニングハンマーをプレゼントし、「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」という原民喜の言葉を伝える。原民喜の言葉は、どんな音を目指しているのかという外村の質問への板鳥の回答だ。この言葉は、外村の心に深く根を張り、内なる森と共鳴しながら、育っていく。
外村は、先輩によく質問をする。時には具体的に、時には抽象的にも。仕事に同行して、先輩たちが何を思い、どう音と向き合っているかを、よくよく見る。天才板鳥の言葉と仕事は、天からの贈り物だろう。皮肉や叱責と紙一重のような秋野の言葉と、一見合理的にすぎて見える仕事ぶりは、前向きな助言以上に外村に己を見つめ直させる。身近にいて、一番多くを教わる柳の言動も優れて個性的だ。学ぶには素晴らしい環境。それでも、ただ与えられるものではなく、外村が積極的に近づき、汲み取っていく。
先輩たちが多くを語るのは、外村を育てるためだけではなく、創る音についての真剣な自己確認なのかもしれない。経験を重ね、優れた技術と固い信念があっても、日々、追いかけ、探し求め、さまよう大変な仕事なのだ。
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