「才能とか、素質とか、考えないよな。考えたってしかたがないんだから」「ただ、やるだけ」――物語の終盤で秋野が語る言葉が、とても重く深く心に残る。
『羊と鋼の森』――ふしぎなタイトルだと感じたが、羊と鋼はピアノを構成する素材だと知る。森は、外村が育った北海道の森であり、ピアノの調律で、正しい音、よい音を求めて、さまよう「森」、さらには、人生を生きることそのもののような深く、美しく、常に迷う危険、傷つく危険をはらんだ大きな世界としての「森」。
外村が、音を探し、自分を探す「森」の中で、すばらしい先輩たち以上に、彼を導き、道を示してくれる存在がある。この物語のキーパーソンとも言うべき、双子の姉妹だ。江藤楽器のお得意様で、幼い頃には秋野が、引き継いで柳が担当し、外村が深く関わることになる。
外見的には見分けがつかないほど似ているが、違う高校に通い、ピアノの演奏もまるで異なる。姉の和音は、柳には普通と評される派手さのない演奏ながら、「粒が揃っていて、端正で、つやつや」した音で、外村を圧倒的に魅了する。妹の由仁の演奏は華やかで、発表会などの本番に強く、常に姉より目立ってきた。姉は妹にコンプレックスを抱きつつ、ピアノに没頭するが、妹のほうが、ある時、病気で演奏ができなくなってしまう。詳しくは書かれていないが、スポーツでよく聞くイップスのようなメンタルトラブルで難治性の深刻なものらしい。
仲のいい双子姉妹、個性の異なる演奏、お互いを意識し思いやる関係――それだけで長編が書けそうな濃いモチーフだが、本作ではスポットが当たっているのは、あくまで主人公の外村だ。双子の運命、それぞれの決断に、担当の柳以上に深く関わり、心を揺らすことで、彼自身が大きく変貌を遂げていく。
外村の「森」の中を、先を導くように、あるいは共に歩くように、少女の存在が輝いていく。調律師とお客という関係性より、彼らは少し親しいが、それでも、つながりは、あくまで、ピアノの音である。双子の姉妹の存在は、調律師の先輩たちのようにリアルというより、ファンタジックだ。ミューズであり、森の中の妖精のようだ。
無彩色に近い、やわらかい、凹んでも、またふわりとふくらみ、さらに大きくなる、そんな半透明のボールのような主人公――下の名前がなく、外見の記述もいっさいない、濃い輪郭線を引かれない、そんな主人公が、先輩たちに学びながら、少女の光に照らされて、リアルな存在感で立ちあがってくる。独特な成長物語だと思った。
お客さんから、あまり評価されず、担当替えのキャンセルも時々ある外村が、「もしかすると外村くんみたいな人が、たどり着くのかもしれないなあ」と秋野に言わせるラストは、とてもあたたかいエピソードだ。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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