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【冒頭立ち読み】『辺境の思想 日本と香港から考える』(福嶋亮大 張 彧暋・著)#2

ジャンル : #ノンフィクション

辺境の思想

福嶋亮大 張彧暋

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『辺境の思想』(福嶋亮大 張 彧暋・著)

香港の「精神」

 最後に、この往復書簡の一応のホスト役の立場から、もうひとりの著者である張 彧暋について簡単に説明しておきます。香港中文大学で社会学を講じる張さんは、日本のオタク文化と鉄道文化に詳しく、毎年末のコミケにも足繁く通う一方、香港のサブカルチャー批評の同人誌の編集者でもあります。英文の博士論文として書かれた鉄道論は日本でも翻訳・刊行されました。*3

 この論文は「社会学とは制度の学である」と言ったエミール・デュルケームの流れを汲みながら、日本の鉄道を集団的なイメージや信念を生み出す宗教的制度(人類学で言うトーテミズムのようなもの)として捉えつつ、近年のテレビドラマ『あまちゃん』にも現れた日本人の「鉄道信仰」を詳しく分析したものです。文学ファンは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や松本清張の鉄道ミステリを想起すると分かりやすいでしょう。彼らは日本人の鉄道信仰を支える「司祭」であったわけです。

 僕は以前、香港中文大学で張さんの授業を聴講したことがありますが、ユーモアたっぷりの流暢な英語で社会学を講じながら、レジュメではゲオルク・ジンメル、デュルケーム、アルフレッド・シュッツ、リチャード・セネット、呂大楽、費孝通等の社会学者から網野善彦、見田宗介、阿部謹也、小熊英二のような日本の学者までを網羅するその自由さには驚かされました。張さんには中国語圏・英語圏・日本語圏の学問世界を横断していく雑種的な知性があり、そのセンスは香港や日本の猥雑なサブカルチャーに対する興味にも直結しています。しかも、彼は高慢なエリート主義とは無縁であり、日本の知人が香港を訪れたときにはいつも快く案内してくれるのです。僕を含めて、彼の世話になった日本の言論人は実は大勢いるはずです。

 要するに、張さんにおいては都会的・国際的・知的であることとオタク的・庶民的・遊戯的であることが矛盾なく同居しています。それは香港人の一つの縮図です。その彼にもう一つの顔があることに気づいたのは、雨傘運動以降のことでした。張さんは率先してこの香港史を画する大規模デモに参加し、運動が終結してからも今日まで、その政治的な情熱が衰える気配はまったくありません。僕には、張さんが都会人のまま急速に「政治化」していくように見えました。しかし、それは突然起こったのではなく、やはり香港の歴史的環境がそうさせたのだと思います。

 張さんは二〇一四年夏の時点で、すでに大きな政治運動の発生を予見していました。それで「きっと面白いことが起こるからおいで」と事前に声をかけてくれたため、僕は雨傘運動の二日後という最もホットな時空を目撃することができたのです。雨傘運動は中央の司令塔がないままに香港島の金鐘(アドミラルテイ)と九龍サイドの旺角(モンコック)を瞬く間に「占拠」し、暴力を使わずに都市の風景を一変させてしまいました(個体のでたらめな行動がいかに秩序ある集団行動を創発するかを考える、近年流行の「群れの科学」の事例としても、このデモの成り行きは興味深いものと言えます)。観光客のお気楽な戯言ですが、後にも先にも、僕はあのときほど強い衝撃を覚えたことはありません。

 多くの日本人は香港と聞くと、ショッピングや広東料理、カンフー映画やギャグ映画、そして高度に発達した金融業などを思い出すでしょう。しかし、このような物質主義的な要素だけで香港を語るのはもはや不十分です。飛行機でたかだか四時間ほどの近距離にあるにもかかわらず、日本人がいまだによく知らずにいるのは、香港にもれっきとした知的な営みがあること、そして従来の遊戯的な感性を背景としつつも若年世代から新しい政治意識が芽生えていることです。日本人は香港の新しい「精神」を知らねばなりません。張さんの活きた言葉は日本の読者に新たな発見をもたらすはずです。

 むろん、僕が日本人を代表しているわけではないように、張さんも香港人を代表しているわけではありません。我々はそれぞれ明らかにバイアスを抱えています。しかし、今日の流動的な社会で、不偏不党を目指してもどうせうまくいきません。むしろ重要なのは、相互行為を観察する視点(蛙の目)と状況を俯瞰する視点(鳥の目)を立体的に交差させることです。*4ミクロな人間的感情とマクロな社会的出来事をともに話題にできる往復書簡は、そのための良い媒体となるでしょう。


*3  張 彧暋『鉄道への夢が日本人を作った―資本主義・民主主義・ナショナリズム』(山岡由美訳、朝日新聞出版、二〇一五年)。

*4 ニクラス・ルーマン『プロテスト』(徳安彰訳、新泉社、二〇一三年)。

 

 

知的な散歩としての往復書簡

 日本では往復書簡はメジャーな出版形態ではありません。しかし、対談よりもじっくりと時間を使って相手の言葉を咀嚼しながら、思考を練り直せるという利点があります。残念ながら、昨今の日本の出版界はインスタントな対談本を乱発しがちです。だからこそ、地理的制約を超え、時間を費やしてお互いの思考に働きかけながら、「私」と「我々」を再創造していく──、そのようなセッションこそが真に生産的なコミュニケーションだという前提を改めて確認するべきでしょう。本書は往復書簡のもつ時間性を実り豊かなものとして差し出したいのです。

 と同時に、本書は決して厳格な本でもありません。我々はお互い束縛をつけず、自由な調子でやりとりすることで、ふつうの書籍や論文ではなかなか書くチャンスのない思いつきも気楽に語ろうとしています。それはちょっとした脱線も許容する、知的な散歩のようなものだと言えるでしょう。そもそも、知的なエクリチュール(書かれたもの)の形態は多様であってよいわけです。議論をむりやりに学術論文のように体系化するよりも、さまざまな話題を手紙の端々から自由に湧出させていく──、それが本書の基本的なスタイルになるはずです。より深く知りたい読者向けには書籍案内を注釈として入れることにしました。

 むろん、この種の一筋縄ではいかない企画を成立させるには、優秀な編集者の協力が欠かせません。文藝春秋の鳥嶋七実さんは僕たちの申し出を快諾し、即座に企画を通してくれました。その熱意と献身のおかげで、本書は無事に出港することができます。彼女はきっと我々を上手にナヴィゲートしてくれることでしょう。

二〇一六年一一月一〇日 東京にて  福嶋亮大

単行本
辺境の思想
日本と香港から考える
福嶋亮大 張彧暋

定価:1,980円(税込)発売日:2018年06月01日

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