20年の長きにわたり、月刊誌「オール讀物」に執筆され、多くの読者に愛された「髪結い伊三次捕物余話」シリーズ。最新刊『竃河岸』で完結した傑作人情小説15冊に作者がこめた思いを再掲載します。
新聞を開けば、眼を覆いたくなる事件が相変わらず起きております。私は今どき、こんなことがあるのかと驚きながら、それを捕物に取り上げようかと考えることがあります。
時代とともに人の気持ちも変わります。しかし、人が生きて行くための心構えは昔も今もさほど変わらないのではないかと考えております。本作品で取り上げた幾つかの事件も実際に起きたものをヒントにしております。見ず知らずの人間を次々と刺殺した加害者のことは、どなたも覚えがあるはずです。せめて自分だけはそうならないように己を律する覚悟が必要です。
何度も繰り返しますが、私が読者に訴えたいことに大層らしいものはありません。人を殺してはならない、人の物を盗んではならない、弱い立場の人間に危害を加えてはならない。親子なかよく、夫婦なかよく、ご近所さんともなかよく、そんな当たり前のことを訴えているだけです。伊三次と女房のお文は、聖人君子ではありません。生きていくためにあくせくお金を稼ぐ庶民の一人です。(中略)
小説を通して、私は生き方を学んだと言っても過言ではないのです。なぜなら、登場人物が抱える悩みや問題を作者も一緒になって考えるからです。解決できることもあり、できないこともございます。それでもいい加減に処理せず、最善を尽くせば、何か糸口を掴めるような気がします。
小説を書く意味は何ですかと問われたら、私は迷わず、真人間になるためだと応えます。これからも真人間になるための努力は続けて行こうと思います。
そうそう、最後に伊三次シリーズの最終回を書くことには固執しないと約束します。
行けるところまで行って、そこで私がお陀仏となっても。それはそれでいいではありませんか──
『今日を刻む時計』
「文庫のためのあとがき」より
宇江佐真理(うえざ・まり)
1949年北海道函館市生まれ。1995年「幻の声」でオール讀物新人賞を受賞し作家デビュー。12年『深川恋物語』で吉川英治文学新人賞、13年『余寒の雪』で中山義秀文学賞を受賞。『あやめ横丁の人々』『聞き屋与平』『恋いちもんめ』『夕映え』『通りゃんせ』『夜鳴きめし屋』など著書多数。2015年11月逝去。