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温かな血の通う世界――宇江佐真理の足跡

温かな血の通う世界――宇江佐真理の足跡

文:細谷 正充

『名もなき日々を 髪結い伊三次捕物余話』 (宇江佐真理 著)

出典 : #オール讀物
ジャンル : #歴史・時代小説

一九九五年のオール讀物新人賞受賞から一躍人気シリーズとなった「髪結い伊三次」をはじめ、数々の物語を紡ぎ出してきた作家の豊潤な物語世界と、その歩みを振り返る。

『名もなき日々を 髪結い伊三次捕物余話』 (宇江佐真理 著)

 宇江佐真理の逝去を最初に知ったのは、ある作家のFBへの書き込みだった。ちょっと信じることができず、あわてて検索した新聞社のニュースを見て、本当のことだと納得。しばし呆然とした後、こみ上げてきたのは、悲しみと淋しさであった。何か、親しい人を失ったような喪失感に包まれたのだ。御本人にお会いしたのは、インタビューをしたときのたった一度だけなのに、なぜそんな風に思ったのだろうか。理由は作品そのものにあった。

 まず作者の経歴を簡単に述べておこう。宇江佐真理は、一九四九年、北海道函館市に生まれる。高校時代より創作の筆を執り、受験雑誌の投稿小説に佳作入選した。函館大谷女子短期大学を卒業し、OLを経て主婦となる。一九九五年、「幻の声」で、第七十五回オール讀物新人賞を受賞。選考委員は、ほぼ満場一致で本作を支持したそうだ。ちなみに選考委員の村松友視は選評で、「私がもっとも評価したのは、ここに描かれる人間関係は、現代小説としても十分に成り立つという点だった」と称揚している。

 その後、「幻の声」は「髪結い伊三次捕物余話」シリーズへと発展。髪結いの傍ら、町方同心の下っ引をしている伊三次と、その恋人から妻になる深川芸者・文吉の人生行路は、読者の大きな支持を集めることになる。作者自身は、二冊目のエッセイ集『ウエザ・リポート 見上げた空の色』に収録された「私と江戸時代」の中で、「江戸時代から我々が学ばなければならないことは何だろうか。それは取りも直さず、人間の生き方にほかならない」と述べ、それを際立たせるために、海外の情報や新しい道徳観念を排除した物語を世に問うているといっている。ここで留意すべきは、作者のいう“人間の生き方”が、現代性をこそげ落としたからこそ見えてくる、普遍的なものであることだ。だからキャラクターが、今を生きる読者の共感を呼ぶ。そしてそこに、宇江佐真理の時代小説の魅力が凝縮されていたのだ。「髪結い伊三次捕物余話」シリーズや、運命に翻弄されながら一途に生きるヒロインを活写した『雷桜』などを読んでいると、そのことがよく分かるのである。

 以後、旺盛な筆力で、次々と作品を発表した作者は、二〇〇〇年に『深川恋物語』で第二十一回吉川英治文学新人賞を、二〇〇一年に『余寒の雪』で第七回中山義秀文学賞を受賞する。また、何度も直木賞の候補になった。江戸の庶民の哀歓を描く短篇やシリーズ物を得意とする一方、『夕映え』のような幕末のダイナミズムを人々の人生を通じて活写することにも長けている。宇江佐版「百物語」ともいうべき『大江戸怪奇譚 ひとつ灯せ』や、他人の打ち明け話に耳を傾ける“聞き屋”の隠居老人を主人公にした『江戸夜咄草 聞き屋与平』など、作風は多彩だ。さらに、現代の平凡なサラリーマンが、天明の飢饉に喘ぐ寒村にタイム・スリップしてしまう『通りゃんせ』のような異色作にも、果敢に挑戦していた。それだけに、六十六歳での逝去は、あまりにも早すぎた。まだまだ作者の紡ぎ出す、芳醇な物語世界に遊びたかったと、悔しくてならないのである。

 さて、先にも触れたように、私は一度だけインタビューで作者と会ったことがある。二〇〇六年の三月か四月だったろうか。『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』が刊行されるので、それについての話を聞いたのだ。実際にお会いした宇江佐さんは、ごく普通のオバチャンという感じで、なんでもザックバランに話してくれた。そのとき、どのような流れだったのか忘れたが、スポーツ選手の話になり、自分の息子のような気持で応援しているといい、さらに『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』の主人公、仙石藩の青年藩士・刑部小十郎についても、子供のように思っていると語ってくれたのだ。鷹揚だが短気なところのある小十郎が、有名な相馬大作事件をモチーフにした騒動にかかわり、江戸でさまざまな体験をしながら成長していく。それを見守るような気持ちで書いていると話してくれたのである。

 そのとき、作者の主人公(及び主人公一家)へのスタンスを、卒然と悟った。家族なのだ。身内なのだ。自分の身内として、慈しむ気持ちをこめながら描いているのだ。ならば主人公を取り巻く面々は、親戚や近所の人であろう。近しい人々が物語を織り成しているからこそ、温かな血の通う世界になっているのである。そして私たちは読者という立場で、その世界の住人たちと、交わっていたのだ。本を読んでいる間は、登場人物の隣にいる気持ちになっていたのである。

 ああ、だからこそ作者の逝去が、たまらなく淋しい。ひとりの作家が亡くなったというより、素晴らしい世界に誘ってくれる、知り合いのオバチャンが亡くなったという感じなのだ。遠くで暮らしているので、なかなか会う機会はないが、作品を通じて優しく温かな肉声を聞くことができた。それが唐突に、終わりを告げられたのだ。今はただ、アルバムを開くように多くの本を開き、懐かしき思い出を追想するのみである。

文春文庫
名もなき日々を
髪結い伊三次捕物余話
宇江佐真理

定価:682円(税込)発売日:2016年01月04日

電子書籍
名もなき日々を
髪結い伊三次捕物余話
宇江佐真理

発売日:2016年02月19日

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