桃山時代、二代にわたる天下人の間近に仕え、名だたる武将たちと交流し、今日まで伝わるわび茶という総合芸術を確立した千利休。政治が芸術へ、芸術が政治へと深く浸食しあった後、大量の血を流して再び分離していくさまは、戦国時代を舞台とするフィクションのつくり手で、一度はテーマにと考えたことのない者はいないだろう。だが実際のところ、千利休とその茶の実像を描こうと試みた小説やコミック、映画は、思いのほか少ない。利休の茶の本質をいかに描くべきか、何よりそこが難物であるからだ。
本作では利休自身がその考えを明らかにすることはついになく、牧村兵部(利貞)、瀬田掃部(正忠)、古田織部(重然)、細川三斎(忠興)ら利休七哲に数えられる高弟たちが順に語り手となり、それぞれの立場から目撃した利休、そして豊臣秀吉の、政治と芸術における相剋が、連作形式で語られる。たとえるなら、ひとつの主題に基づいて変奏が繰り返されていく、長大な変奏曲のような物語だ。
実のところ、利休の言葉や行動として書き残された史料に、信頼に足るものは多くない。長い間茶の湯の聖典とされてきた『南方録』も、「南坊宗啓という利休の弟子が、利休三回忌の際に霊前に献上した伝書で、その後南坊宗啓は行方をくらまし、埋もれた『南方録』を元禄三年(一六九〇)、福岡藩の家老立花実山が再発見した」という念入りな筋書きのついた偽書。とはいえ、当時残っていた利休関連の史料類を寄せ集めたものであることは確かで、言ってみれば釈迦の説法として残る記録を、後に弟子たちが結集した仏典や、イエスの言行録を弟子たちがまとめた『新約聖書』などによく似ている。あるいは、朝顔の茶会をはじめ、岡倉天心『茶の本』にも多数が引用された、印象的な逸話の多くを収録する『茶話指月集』は、利休の孫、宗旦の弟子で「宗旦四天王」に数えられた藤村庸軒が宗旦から聞いたことを、さらに庸軒の弟子(宗旦晩年の弟子とも)である久須見疎安という茶人がまとめたとされる逸話集で、利休の「神格化」に大きく貢献してきた。
といって、利休がその死後からずっと同じ調子で称揚されてきたわけでもない。室町時代から桃山時代にかけて、書院の茶から草庵の茶へという大きな流れの中で、京や堺以外の各地に多彩な茶の湯者が輩出したが、利休と秀吉の結びつきによって、利休のわび茶へと一度は平準化される。しかしその死後、再び多様化していく茶の湯の世界にあって、利休の百年忌を迎えた元禄三年(一六九〇)頃になると、賜死から家の断絶という危機を乗り越え、茶家としての三千家が鼎立。茶の湯の世界で、千家の立場を確固たるものにしていくという意識から、千家の中に利休を祀った祖堂を作り、いわゆる利休道具(利休自身が作る、あるいは職方に指示して作らせる)の箱書きが家元によって書かれるなど、利休への回帰、価値の集約が意識的に進められていくようになる。そして岡倉天心が明治三十九年(一九〇六)、ニューヨークの出版社から英語で刊行した『茶の本(The Book of Tea)』をもって、「茶聖利休」のイメージが完成するのである。
以後のフィクションに描かれる利休は、このイメージを基準に、そこに寄り添うか、そうではない人間利休の一面を切りひらくか、という二極を、振り子のように揺れ動いてきた。本作の利休が最後にどちらの貌を見せるのかは読んでのお楽しみだが、利休と秀吉を芸術における双生児のように描いた、黄金の茶室の解釈については、利休の美意識の核心に触れるものとして、満腔の同意を示したい。黄金の茶室は、ともすれば相容れることのない秀吉と利休の、もっとも先鋭な対立点のように扱われがちだが、恐らくそうではない。
天正十四年(一五八六)、秀吉は宮中の小御所に黄金の茶室を運び込み、正親町天皇に茶を献じた。吉田神社の神主・吉田兼見は、日記『兼見卿記』にその時の様子を「御茶湯は悉く黄金、御座敷は勿論なり、その見事さ筆舌に尽くし難く目を驚かす」と記す。あるいは天井から明り障子の骨まですべて金で包まれていたこと、茶室は組み立て式になっていたこと、茶道具もすべて黄金づくりであったことなどを、当時の大名や豪商、宣教師たちは事細かに書き記した。
その記述を元に、堀口捨己(監修)、稲垣栄三(考証)、早川正夫(技術協力)らが協働して昭和六十三年(一九八八)に再現したのが、MOA美術館の黄金の茶室(金箔は二〇一三年に、漆芸家で人間国宝の室瀬和美の監修によって、全面的に再施工された)である。現代美術であれば、ジェームズ・タレルの向こうを張って「光の茶室」とでも名づけたいその空間の孕む力に、利休は戦慄と歓喜を感じたに違いない。取材で入らせていただいた時の感想は、そこに尽きる。
屋内に仮設された茶室であるから、御所の白洲で反射した光は、蔀戸と御簾を経て室内に届き、襖紙の代わりに張られた緋色の紗を通して茶室の内部を照らす。それが茶室内部でどのように体感されるかというと、畳に敷かれたラシャ、紋紗の緋色が、金箔張りの壁や天井に映り込み、障子を閉めると、金と赤の光の中に物象が溶け、吸いこまれるような浮遊感だけになる。金箔は抽象化して光に変換され、壁はいわば「透明」になって消えてしまう。また物質としての黄金や、金/赤という色のコードも、現代の我々が感じるものとは違う。御所では金碧障壁画や緋色の調度・装束は珍しいものではなく、それらを効果的に使うなら、黄金の茶室くらいの徹底度が必要となる。また金と赤、その影から生まれる黒の中では、唯一鮮やかなグリーンの抹茶がさぞ引き立っただろう。一方で天皇を迎える秀吉がまとう装束が金でも赤でも、背景となる茶室に溶けこみ、へりくだる態度を示すことになる。そして釜から風炉、水指、柄杓立に至るまで揃った黄金の皆具も、この茶室に置けば光に溶け、存在感を薄れさせていく。それは利休のわびの美意識の極致とされる待庵が、薄闇の中で楽茶碗の存在感を失わせ、ただひとすくいの抹茶を挟んで主客が向かい合う境地へ誘う装置となっていることと、あたかも鏡で映したように似ているのだ。つまり秀吉と利休、黄金の茶室と待庵は対立するものではなく、同じテーマの変奏なのである。
芸術において利休と同じ高みを知っていた秀吉と、政治において秀吉と同等の奸智を発揮し得た利休とが、真向かった時に何が起こったのか。利休の時代に使われることのあった「滾りたる茶」という言葉のとおり、「たかが茶」の中に命を滾らせた人間たちの、白熱した生の軌跡に触れてほしい。