仁八郎は『無冤録(むえんろく)』の記述を参考に検視を行うが、この書は、元の王与が一三〇八年に編述した実在の法医学書で、一七三六年に河合甚兵衛が『無冤録述』として抄訳し、一七六八年に刊行されたことで日本でも広く読まれている。『無冤録述』には、「自ら縊(くびし)めした者」と「しめ殺して置いて、跡で自縊して死んだやうにこしらへ」た死体の違いを見極める方法も解説してあるので、殺人を捜査する江戸の与力や同心は簡単なトリックなら確実に見破れたはずだ。ただ検視をしても伊三郎が自死なのか他殺なのか判然とせず、仁八郎は自死の現場にはよくある踏台がないことにも疑問を持つ。
やがて志乃は、今回の事件が家庭の事情によって「仇」(ここでの意味は、「敵」よりも「憎悪」の方が近い)が増幅されて起こったと看破する。家族が仲良く暮らしていれば家庭は心休まる場所だが、ひとたび問題が発生すると、逃げ場がなく、仲裁してくれる外部の目も届かないだけに最悪の事態になりかねない。伊三郎の死は、ドメスティック・バイオレンスや子供への虐待などを生み出す普遍的なメカニズムを浮かび上がらせており、恐怖が生々しく感じられる。
岡本綺堂『半七捕物帳』の一編「歩兵の髪切り」には、引退した岡っ引きの半七老人が、江戸時代に起きた髪切り事件を「髪切りは時々に流行りました。あれは何かのいたずらか、こんにちの言葉でいえば一種の色情狂でしょうね。そういうたぐいの髪切りは、暗いときに往来で切られるので、被害は先ず女に決まっていました」と説明する場面がある。常楽庵の周辺で、若い女性が何者かに髪を切られる事件が連続する「塗り替えた器」は、「歩兵の髪切り」へのオマージュだろう。
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