この作ほどこちらに多くを考えさせ、また創作執筆時にも劣らない、さまざまなストーリーをこちらの脳裏に想起させた候補作は過去なかった。その豊穣な喚起性は啞然とするほどで、ゆえに以下の小文は、従来的な選評文の定型からはやや離れ、こちらの心性や、一般論を語る異例のものとなることを許していただきたい。しかし説明は、作が内包する重大な意志を自然に語るであろう。
人は何故小説を書くのか。また読むのか。物語に喚起されてくる何らかの心性が、人が生きていく上での重い「真実」の指摘になるからであろう。人はこれに価値を感じ、その感想を作者と共有し合いたくて小説を読む。
ここで言う真実とは、一九四〇年代にヒトラー・ドイツがフランスを占領したといった類いの真実ではない。ノンフィクションや報道記事的な真実とは別の人工物との対面が、「真実」の認知と同等以上の心性となり、多くの読み手がこれを重く受け止めることで小説の真価が認識され、この文字群が文学という称号を受ける資格を得ていく。
作者によって創られて語られる状況、すなわちそれは「噓」でもあるはずだが、これを読み手は自身のリアルとして受けとめ、対面して生じるある心性を、真実以上の“重み”に感じる。ここにある「真実」とは何であるのか、それがどのような思索と文字化のプロセスを経て普遍的な価値獲得にいたるのかといったことに、作家は自覚的になるべきであり、その種の議論は絶えず行われるべきであるが、こうした文学上の事情を、この作はよくこちらに思わせ、突きつけてくれた。
日本にはほとんど有害なまでに歪んだ近代文学史があり、それは探偵小説が自然主義文学よりも一段低位と見なす、盲目的な常識である。それは欧州の科学革命という思想変革を通過して、自然主義文芸と双生児的に生まれ落ちたものであるのにも関わらず、それをアジアでいち早く輸入した日本に、科学革命が未到着であったという悲劇による。
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