特集

『仮の林』牧田真有子

文: 牧田真有子

文學界10月号

「文學界 10月号」(文藝春秋 編)

 小さい頃から盆栽が妙にこわかった。それが精巧な縮小コピーではなく、本物の木であることが。

 夜半に降ったらしく路上が濡れていた。駅から大学へつづく細い歩道を、大勢の学生とひしめきあいながら黙々と歩き、勤め先の研究室がある棟に入る。今年の二月、派遣会社から紹介されたのは大学教授の秘書という仕事だった。

 階段ですれ違った顔見知りの院生が、センセ不在っすよ、門のとこで見かけたから来たのに超むだ足、とぼやくように教えてくれた。ふうん、と僕は思った。朝一で打ち合わせをさせてほしいと先生に言われていたから早めに家を出たのだ。先生はせっかちな人だ。待つのも待たせるのも嫌いだ。やがて彼がドアをあけると、部屋中の空気がどっと動いて、雨上がりの草木の匂いが流れこんだ。

「どこに行っておられたんですか?」と僕は言った。

「腹を探られに行ってたんですよ」

 先生はにこりともせずに応じた。この人はめったに笑わないけれどたいてい機嫌は悪くない。逆の場合より百倍たすかる。社会学の用語なんてゲマインシャフトとゲゼルシャフトしか思い浮かばない僕がやっていけるのか、不安だったのは初めの頃だけだった。

「腹を探られるってどういうことですか?」

「喫煙室で根村先生とお喋りするってこと」

「覚えておきます」

「覚えてもいいけどメモはとらないように願いますよ」

文學界 10月号

2019年10月号 / 9月6日発売 / 定価970円(本体898円)
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