僕はほっとして「よかったです、どなたかよっぽどお好きな先生がおられるんでしょうか。高尚なご趣味」などとぺらぺら喋りながらカレンダーを外して両手でくるくると巻き、持参した代用品を広げてフックに掛けた。家に余っていた、父親が経営する自転車屋のカレンダーで、暦の上部には世界各地のサイクリングロードの写真が、下部には店名とアドレスが掲載されている。先生は耳たぶを掻きながら言った。
「いやそれ、家内の作品でして」
巻き戻し映像のような正確さで僕は二種類のカレンダーを元通りにした。先生はほんの少し笑った。
「幾背(きぜ)君は盆栽が嫌いなのかな」
「むしろ好きです」
「無理しなくていいんですよ」
「とんでもない、自然に口をついて出てきました」
「そうですか。最近の人ってのは渋好みだよね。いま産休中の秘書の子も、展示会でほれ込んで以来家内に習いだしてね。そのカレンダーを作ったのも彼女です」
「打ち込める趣味があるなんて羨ましいな」
「習いますか? 家内は今は正式に教室を持ってるわけじゃなくて、口コミで、マンツーマンで稽古をつけていて。家とは別に部屋を借りてるんだよ。贅沢でしょう」
先生には子どもがないと聞いたことがあった。奥さんは一回り以上若いということも。いやはやなんのその、というような合いの手を僕は入れた。窓の向こうの黒くなだらかな山並みには霞がかかっていた。彼は腕時計を見た。僕は先生の時間をこれ以上一秒たりとも奪うまいと焦り、その勢いだけで稽古の申し込みをしてしまった。
先生の奥さんと対面したのは翌週の土曜日だった。引き合わせてくれる手はずになっていた先生は、「すみません、油断も隙もない学会へ顔を出す破目となりました」というメールを送ってきた。添付されていた地図を頼りに僕は一人で自転車をとばした。アパートは年代物だった。外付けの鉄骨階段は錆だらけで壁の飾りタイルはぼろぼろに剥がれ、雨樋に至っては途中で消滅している。アパートの後ろには幅の広い川が流れていた。
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