就業初日にもらった、総務や各研究室の内線番号つきの見取り図を僕が広げると、先生は釘を刺した。僕はメモ魔なのだ。見取り図の、先生と根村先生の各部屋から矢印を引き出して〈権力闘争(?)〉と書き込もうとしていた僕はすぐに諦め、先生からの複数の依頼をメモ帳に記録し、予め選別していた郵送物を手渡し、いくつかのメールについて指示を仰いだ。それから出版社に返送する校正刷りを受け取って伝票を書いた。その間先生は彫りの浅いのっぺりした顔で窓辺に立ち、届いたばかりの他大学の紀要に目を走らせていた。墨色のシャツが風をはらんでいる。五十二という年齢にしてはすらっとしている。パイナップルと帆船が同じ大きさで列挙されたプリント地のバミューダパンツは赤い。
尊敬はしているが、もし僕が彼のお母さんなら、「あなたももう自分の地位に相応しい格好くらいなさい。退屈な会合でも長机が揺れるほどの貧乏揺すりはおやめなさい。購買部でアイスを買ったあと研究室に戻るまで待ちきれなくて舐めながら歩くのも控えること。みっともない」と言うだろう。でも秘書なのでやむなくひっそりひややかに観察している。奥さんは何も言わないのだろうか?
投稿論文の締め切りや研究会で立て込んでいる月末のスケジュールについて、壁掛けのカレンダーを睨みながら今一度二人で確認したあと、僕は極力さりげなく言った。
「図々しいお願いで恐縮なんですが」
「うん」
「カレンダー、掛け替えてもよろしいでしょうか」
この部屋の暦は月ごとに、芸術なのか自然なのか道楽なのかわかりかねるミニチュアの樹木を、即ち盆栽を、鮮明な写真で紹介してくる。就業時間のほとんどをこの共同研究室ですごす僕はかねてから閉口していた。
「誰もここのには書き込んだりしてないし、別に構いません」と先生は言った。
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