0 「父の不在」と「狂気」の物語の可能性
新海誠の作るアニメーションには、現実の存在であれ、象徴的な意味であれ、「父」がほぼまったく登場しない。たとえば、『星を追う子ども』(二〇一一年)で主人公の少女・渡瀬明日菜(声は金元寿子)は、幼いころに父を亡くしており、本来なら彼女の父親がわりになりうるはずの担任教師・森崎竜司(声は井上和彦)も、亡妻への思いを断ち切ることのできない「弱い男」として描かれている。あるいは、『君の名は。』(二〇一六年)でも、ふたりの主人公の父のうち、立花瀧(声は神木隆之介)の若い父親の影が薄いのはもちろん、物語の流れからは、本来はその対決がそれなりに丁寧に描かれるべきはずだろう宮水三葉(声は上白石萌音)の父親=権力側の介入も比較的あっさりと省略されてしまう。
いずれにせよ、こうした徹底した「父の不在」という新海作品の特徴は、「父的」な存在になぞらえられるような、作品の背後を支える「大文字の社会領域=象徴秩序の欠如」という、「セカイ系」と呼ばれる物語類型をさしあたりなぞるものでもあるだろう。(※1)そして、それは、現在劇場公開中の新作アニメーション映画『天気の子』(二〇一九年)でも変わりない。この作品に登場する主人公たちもまた、いずれも親元から離れ、東京の街をあてどなくさまよう未成年の少年少女たちであり、そこに家族の気配はいっさい感じられない。また、当の新海自身も、実際にこうした演出が意図的な配慮であったことを明かしている。
そうやって徐々に物語の形ができていく中で、最後の最後になって変更したのが、帆高と須賀の関係性です。それまではずっと、ふたりの関係性を対立するものとして書いていたんです。帆高が陽菜を取り戻そうとする時に、それを邪魔するのが須賀である、と。帆高は自分を拾ってくれた須賀と対峙して、彼の存在を乗り越えていかなければならないんじゃないか――そう思い込んでいたんです。物語の構造でいう、いわゆる《父親殺し》ですね。[…]でも、どうもしっくりきてもいなかったんです。