ともあれ、この概要からも、『天気の子』がいかにもセカイ系的な「父」=象徴秩序の不在に基づいた物語であることは明らかだ。本来は、帆高たちにとって父的役割を演じうる位置にいるはずの圭介も、『星を追う子ども』の森崎同様、その存在感はいたって希薄である。むしろ、主人公の帆高を取り巻く陽菜や凪、そして圭介の姪の女子大生・夏美(声は本田翼)たちの関係性を踏まえると、『天気の子』では父母と子といった《垂直的》な関係性よりも、むしろ擬似的な兄弟姉妹ともいうべき《水平的》な関係性のほうが強調されている。
ともあれ、「『君の名は。』に怒った人が、もっと怒ってしまうような映画」――新海が、そう挑発的に予告していた通り、そんな本作は公開後から、手放しの絶賛だけではなく、すでにさまざまな否定的評価にもさらされている。そして、わたしの見るところ、(これまでの新海作品に対する評価もそうであったように)そうした批判の少なからぬ部分が、この作品におけるこうした「父の不在」に関係しているように見える。
では、わたしたちは『天気の子』における、こうした「父の不在」の意味を、作品世界のなかでどのように理解すればよいのだろうか。そのことを考えるにあたって注目してみたいのは、さきに引用した発言のうち、「悩みに悩んで最後に思い至ったのは、狂っていくのは須賀ではなく、帆高なんじゃないか」という新海の言葉である。彼は、同じインタビューで、『天気の子』の物語についてつぎのようにも解説している。
今回の作品の柱としていちばん根本にあったのは、《この世界自体が狂ってきたという気分》そのものでした。[…]
そこから思いついたのが、主人公である少年が「天気なんて、狂ったままでいいんだ!」と叫ぶ話だったんです。[…]やりたかったのは、少年が自分自身で《狂った世界》を選び取る話。(※3)
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