![父の不在と狂気の物語――『天気の子』試論](https://b-bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/4/c/1500wm/img_4c4ce13facc31594d9dfae1fe968814d168429.jpg)
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とはいえ、以上の細部はさしあたり個々に賛否を問題にしていけばよい論点だろう。それよりも本論で問題にしたいポイントはほかにふたつある。まず第一に、本作の多くの大人たちの行動に見られる、どこか日本的で微温的な保守性の感覚。具体例を挙げれば、物語の終盤、陽菜と引き換えに、異常な大量降雨により街の一部が水没してしまった二〇二〇年代の東京について、立花冨美(声は倍賞千恵子)という老婆は、「――知ってるかい?[…]東京のあの辺はさ、もともとは海だったんだよ。[…]だからさ――結局元に戻っただけだわ、なんて思ったりもするね(※4)」と帆高に語りかけ、同様に圭介もまた、「まあ気にすんなよ、青年[…]世界なんてさ――どうせもともと狂ってんだから(※5)」と彼女を追認するかのように似たような感想を気怠げに口にする。世界や社会の命運など、所詮は「天気」=自然のように人間の主体的な意志ではどうにもできない法則で確率的に決定されてしまうだけだ、わたしたちはその行く末にまさに日和見的(!)にうまく迎合していくしかなす術はない――『天気の子』に登場する大人たちの多くが口を揃えて吐露するのは、おおよそこのような認識に近い。
(※1) セカイ系作品における「父」=社会領域の消失の問題については、たとえば以下を参照。笠井潔「社会領域の消失と「セカイ」の構造」、『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂、二〇〇八年、四三~五八頁。
(※2) 新海誠「調和を取り戻せない世界で新しい何かを生み出す物語を描きたい」、『天気の子』プログラム、二〇一九年、一四~一六頁、傍点引用者。
(※4) 新海誠『小説 天気の子』角川文庫、二〇一九年、二八二~二八三頁。以下、原則として映画版の台詞や描写に即しながら、適宜小説版を参照した。
この続きは、「文學界」10月号に全文掲載されています。
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