ここで新海自らが要約することを踏まえれば、今回の新作は、「狂ってきた世界」のなかで、主人公がある「狂った」選択をする物語ということになるだろう。さきに結論から述べれば、『天気の子』がまとう、一見セカイ系的な「父の不在」のように見えるイメージについて考えるには、わたしの考えでは、じつはこの世界と主人公が体現するある「狂気」の内実を考えることが必要である。なぜなら、そこで描かれている「狂気」とは、――おそらくは新海自身の意図を超えて――単なる比喩や現実の臨床的判断で語る以上に、この世界の構図やわたしたちの倫理や欲望のありかた、ひいてはアニメーション表現にいたるまで、この現代社会の本質を映しだす何かを意味するように思えるからだ。セカイ系的な文脈からの『天気の子』に対する批判も、まずはこの地点から問いなおされるべきだとわたしは考えている。
以上の前提を踏まえつつ、この評論では、「父の不在」と「狂気」というキーワードを軸にして、『天気の子』で展望されている、今日の「世界と人間性の形」について考えてみたい。
1 『天気の子』のノン/ポリティクス
この夏、記録的な大ヒットとなっている『天気の子』には、すでにさまざまな批判も向けられているとわたしは述べた。なるほど、わたしの眼から眺めても、『天気の子』の物語設定やキャラクターたちの行動原理には、確かに、一見容易に受け入れ難いような展開や細部が見つけられる。
たとえば、女性キャラクターに対するセクシズムに抵触しそうなきわどい描写の群れ。あるいは、「美しい東京」や「豊かな日常」をきらびやかに描いた『君の名は。』とは真逆の、良識派がいかにも眉をひそめそうな「貧しい(ダークな)東京」の表現(少女を性風俗に勧誘する大人や、逆に警察に拳銃を突きつける少年の描写)。
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