対立と憎しみを煽る時代に、天皇陛下が存在する意味。
思えば、「悠久」と呼ぶべき伝統を誇る天皇や皇室も、ずっと安泰であったわけではない。たとえば、将軍・足利義満が皇位を簒奪しようとしていたとされる室町時代前期や、国中が戦火に明け暮れた戦国時代後期などは存続の危機にあったという。さらに、今年の八月には令和の御世になってはじめての「終戦記念の日」を迎えるが、七十四年前の敗戦もまた、大きな危機であったと言えよう。
当時、連合国代表の中には、昭和天皇を戦争犯罪容疑で訴追することや、天皇制を廃止することすら主張する向きがあった。また、占領軍当局の奨励もあって、国内の新聞・雑誌でも、天皇はしばしば厳しく批判された。それに対する昭和天皇のご苦悩は、拙作『昭和天皇の声』でも扱ったところである。
私自身は、昭和天皇に戦争責任を問うのは無理だと思っているが、結局、天皇は日本国憲法において、日本国及び日本国民統合の〈象徴〉と規定されて、戦後も存続することが正式に決まった。元首として規定されていないことなどを問題視する向きもあるが、天皇の存続それ自体は、日本人にとって幸福であったと思われる。
現在、世界には「ポピュリズム」が蔓延し、大統領ら他国の代表たちが、SNSなどを通じ、およそ上品とは言えないことを次々と発信して、人々の間に対立と憎しみを煽るさまが目立つ。いっぽう、我が国においては、内外にさまざまな問題や対立を孕みつつも、それを超越した「悠久の日本」を体現される天皇陛下が、気品ある、優美なるお言葉やお振る舞いをもって、非運にたおれた霊を慰められ、災害などで苦しい立場に置かれた人々を励まされ、また人々の安寧や幸福を祈願される。私は、天皇を戴くこの日本のシステムのほうが優れていると思うし、これが日本の社会の安定や繁栄、文化の洗練などに寄与した面は小さくないと考えている。
災害が続く時代からこそ、「伝統が続くという信頼感」が大切だ。
何度か「悠久」という言葉を使ってきたが、それは天皇と我が国の歴史の長さのみをあらわしているわけではないはずだ。「悠」の字は奇しくも、数少なくなった皇位継承権者のうちで最も若い、秋篠宮家の悠仁親王殿下のお名前にも用いられているわけだが、遥かな未来をも含むものでなければならない。これまでと同様、今後も日本のよき社会秩序や伝統がつづくだろうとの信頼があるからこそ、私たちは災害などの苦難に見舞われても、忍耐強く、秩序立って振る舞えるし、子や孫、さらにその先の世代すら見据えて、励まし合い、協力し合えるのではないか。
あらためて言うまでもなく、皇位継承を安定化させる施策は、いまや待ったなしである。主権者たる国民、およびその代表たる政治家各位におかれては、この問題をいたずらなる政争の具とすることなく、実りある議論を早急に進めていただきたいと思う。