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万城目学と門井慶喜の「辰野金吾建築散歩」in東京

万城目学と門井慶喜の「辰野金吾建築散歩」in東京

「オール讀物」編集部

ふたりの建築探偵が大建築家の足跡をぶらぶら歩く!

出典 : #オール讀物
ジャンル : #歴史・時代小説

まえがき

 金吾でGO! 万城目学

辰野金吾を愛してやまない作家・万城目学氏

 私が辰野金吾という建築家を知ったのは、『プリンセス・トヨトミ』の連載をしながら、この荒唐無稽極まりない話に、どうそれっぽい説得力をつけるべきか悩んでいる最中のことでありました。

 藤森照信氏の『建築探偵』シリーズを何とはなしに眺めていると、建築音痴の私でもその名前や外見を知っている建物の設計者として、やたらと同じ人物の名前を目にする。そこから辰野金吾という名前を覚え、「辰野式」と呼ばれる赤レンガの建物群を覚え、最終的にストーリーの中にねじこむことに成功したわけですが、あれからざっと12年が経ち、ずいぶんと世間で辰野金吾という名前を目にする機会も多くなったように感じます。

 それはひとえに東京駅の改修工事が終了し、この大建築を設計した人物として再脚光を浴びているがゆえでありますが、すでに10年前の時点で、『ぼくらの近代建築デラックス!』企画を始めるにあたり、大阪に残る辰野建築からその第一歩をしるした我々は、きわめて先見の明があったと言わざるを得ないでしょう。

 そんな二人が、改めて辰野金吾の足跡を、オリンピック開催を前に妙にうわついている東京の中に探って参りました。立派に残っているもの、完全に消え去ったもの、建物はなくても不思議な気配を漂わせているもの――。今も東京に生きる、様々な辰野金吾のかたちをご覧ください。

 それでは「辰野金吾建築散歩in東京」のはじまり、はじまり。

 


(1)工部大学校【ボアンヴィル/1877年/千代田区霞が関3-2-1】(現存せず)

『東京、はじまる』(門井慶喜)
『ぼくらの近代建築デラックス!』(万城目学 門井慶喜)

万城目 素敵な近代建築を見上げ、毎度「すごい」で終わってしまう僕の隣で、人知れず小説を仕上げる野心を磨いていた門井さん。建築家ヴォーリズについての物語、『屋根をかける人』(角川文庫)を書かれたときは、「え、いつの間に!」と驚嘆したものですが、何とこのたび、また新たな作品を上梓されるそうで。

門井 はい、『東京、はじまる』という題名で、辰野金吾の小説を書きました(文藝春秋より好評発売中)。明治維新をきっかけにして、それまでの「江戸」が「東京」へと変わっていくさまを、建物の面、都市空間の面から金吾に託して考えたかったんです。

万城目 辰野金吾といえば、2010年から門井さんとまわってきた近代建築散歩(共著『ぼくらの近代建築デラックス!』文春文庫)の主役でもあります。今回、辰野を軸に据えて、あらためて東京を歩いてみようということで、虎ノ門に集合したわけですけど……。

門井 虎ノ門の交差点付近、文部科学省の真横に「工部大学校阯」の碑が残っているんですね。金吾は、安政元(1854)年、肥前国唐津藩の武士の家に生まれますが、武士といっても最下級、半分は農業みたいな貧しい暮らしだったそうです。やがて叔父の養子に入り辰野姓となった金吾は、苦学して上京し、二十歳で工学寮(工部大学校の前身)に入りまして……

虎ノ門のビル群の谷間にひっそり残る工部大学校址

万城目 おお、出会うなりさっそくの門井節(笑)。金吾とファーストネームで呼ぶところに、想いの熱さを感じます。

門井 あ、たしかに(笑)。まあ、若き日の金吾が青雲の志を抱いて学んだ場所を見てみようということで、この工部大学校址を本日の出発地点に選びました。

万城目 工部大学校は江戸城の外堀のすぐ内側、まさにお堀端につくられた学校ですが、碑のすぐ近くに江戸城の石垣の一部がまだ残っています。さらに必見なのは、地下鉄の入口を入ってすぐ(東京メトロ「虎ノ門駅」11番出口)に「江戸城外堀跡」の展示があり、当時のこのへんの様子がよくわかるんですよ。明治十(1877)年、工部大学校ができた頃には外堀は埋められてなかったので、学生たちは水をたたえたお堀を見下ろしながら勉強に励んだのだろうし、お堀の向こうには江戸八百八町の町並みがまだ残っていた。さぞ絶景だったでしょうね。

「江戸城外堀跡」の展示を見入るふたり
江戸城外堀の石垣がまだ残る

門井 校舎自体は赤レンガの痕跡を碑に残すのみですが、この赤レンガを眺めるとき、私は「殖産興業」の匂いを感じずにはいられません。明治政府は国を挙げて殖産興業をやるというけれど、矢面に立つのは工部省なんです。当時の役所の管轄を見ると、鉄道も造船も鉱山も製鉄も電信も、みな工部省が担当している。国づくりの要素がビックリするくらい全部入っている中に、「造家」(のちの建築)も含まれていました。

赤レンガを検分する門井氏

万城目 造家学科の第一期生は数人なんですよね。辰野は首席で卒業したと聞きますけれど、本当ですか?

門井 そうです。在学中にひとり亡くなって、最終的に同期は4名。曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎、そして金吾。みなのちに高名な建築家となる錚々たるメンバーです。ちなみに金吾の入試の成績は最下位で、同郷の曾禰が甲科合格の官費入寮生だったのに対し、金吾は乙科の私費通学生。いまで言うと大学生と予備校生くらいの差があります。

万城目 入ってから辰野がものすごく頑張ったということですか。

門井 はい。金吾が功成り名を遂げたのち、長男である隆(東大教授、仏文学者)に繰り返し語ったそうですよ。「お前は俺の息子なのだから天才であろうはずがない。俺は同級生に曾禰君というすごい男がいたが、クソ勉強して一番になったのだ。だからお前も努力せよ」と。それほどまでに金吾は、自分のことを天才とは思っていなかった。「努力の人」であると自己認識していたのです。

さて、ここで私、ちょっと大胆なことを申し上げようと思うのですが……。

万城目 ほう、何でしょう?

門井 もし建築というものが美術品だとしたら、こんにち残っているものから判断して、金吾はどうも曾禰、片山には劣っているのではないか。

万城目 何と! いきなり思い切った門井説が飛び出しましたね(笑)。

門井 たとえば片山東熊の赤坂離宮と金吾の日本銀行を眺め比べて、純粋に美的にどちらが上かといったら、それは東熊だと思うんです。

万城目 それはそうかもしれない。見るからに華美ですものね。

辰野金吾

門井 また、慶應大の赤レンガ図書館(旧館)や、レストランとして有名な小笠原伯爵邸をつくった曾禰達蔵は、あんまり「俺が俺が」というデザインをしない人ですが、少なくとも卒業論文のコメントを見る限り、コンドル先生は曾禰の才能を高く評価していました。金吾は二番手。ところが結局、先生が首席の座をあたえたのは金吾のほうでした。これですべてが決定した。留学も、帰国後の教授の座も金吾のもの。いっぽうの曾禰は助教授のままです。

万城目 なぜでしょうね。指導者、教育者として日本の建築界をリードしていく資質という点で、辰野に軍配があがったということですか。

門井 コンドル自身はそこまではっきりと言っていないんです。ひとつはやっぱり美術以外、つまり構造面、実用面での評価でしょうが、もうひとつは人間そのものへの評価だったんでしょう。私の小説では、コンドル先生に「世の中を変えてやろうという気概において、辰野君が上だった」という趣旨のことを言わせています。コンドル先生も若かったし、金吾たちも若かったし、近代日本そのものも若かった。未来への期待という一点がとほうもなく高い評価の対象だったんですね。

 

(2)工科大学本館【辰野金吾/1888年/文京区本郷7-3-1】(現存せず)

万城目 さて、本郷にある東京大学工学部にやってきました。

門井 明治十七(1884)年、金吾は三十一歳で工部大学校の教授になるんですけども、翌年に工部省が廃省。工部大学校は文部省の所管になり、東京大学と合体し、本郷に移って帝国大学工科大学になるんです。その工科大学の本館の設計を、金吾がしてるんですね。のちの東京帝大工学部本館ですけれど、残念ながら大正十二(1923)年の関東大震災でやられて現存していません。震災後、金吾の弟子である佐野利器、佐野の教えを受けた内田祥三によって再建された校舎が、いま、我々の目の前にある工学部一号館というわけですね。

関東大震災後に内田祥三が建て直した、現在の東大工学部一号館

万城目 思い出した! 映画『風立ちぬ』の主人公、堀越二郎は、震災当時、東大工学部の学生なんですよ。映画の序盤、彼が地震直後の本郷に行って、赤レンガの校舎が燃えているのを見るシーンがあるんですけど、あれが辰野設計の工学部だったのでは!(万城目注・映画に登場するのは、東大の図書館でした。ちなみに、現在も東大工学部建築学科四年生の卒業設計の優秀賞として「辰野賞」が贈られているのだとか)

門井 すごい記憶力ですねえ。

万城目 (構内を歩いて)あ、キャンパスの中庭に、辰野の師匠、コンドル先生の銅像が建っていますよ。

巨大なジョサイア・コンドル像

 

門井 非常に大きい全身像ですね。像は高村光雲の弟子である新海竹太郎の彫刻なんですけど、台座も含めた全体のデザインを、やはり金吾の弟子である伊東忠太が担当している。伊東はこれまでの建築散歩でも見てきた、一橋大学の兼松講堂、築地本願寺などをデザインした、妖怪好きの建築家ですね。

万城目 台座のあちこちに妖怪らしきモチーフがあるのも納得です。

コンドル像の台座には、妖怪の気配がうかがえる

門井 ここで、ジョサイア・コンドルについて付言しておきますと、コンドル先生と金吾ってわずか二歳違いなんですね。

万城目 へぇー。

門井 二十四歳の生徒のところに二十六歳の先生が来たわけですから、教えるほうも教えられるほうもすごく若い。じつは金吾が工部大学校に入ったとき、最初はボアンヴィルという御雇外国人が教えていました。お堀端の工部大学校の校舎をつくった人なんですけれど、もともと技師として来日した人で、教育者としては大したことがなかった。コンドル先生が着任して金吾たちはすごく喜んだらしいです。

万城目 ようやくちゃんとした先生が来たと。

門井 なんせボアンヴィルの校舎は雨漏りしたらしく、それを後任のコンドル先生が自分で修理したエピソードも残っているくらいですから。コンドル先生は大変な親日家で、本国イギリスで将来を嘱望される若手建築家だったにもかかわらず、任期が終わった後も帰らず、落語はたしなむ、日本画は勉強する、日本人以上に日本人らしい暮らしをつづけます。

万城目 河鍋暁斎の弟子になるんでしたよね。

門井 日本画では暁斎から「暁英」という号をもらうほどの腕前でしたし、日本舞踊にものめり込んで、踊りのお師匠さんだったくめさんと結婚しちゃうほどでした。

 

(3)日本銀行本店本館【辰野金吾/1896年/中央区日本橋本石町2-1-1】

万城目 ようやく辰野がつくった現存建築にたどり着きましたね。

門井 明治二十九(1896)年、金吾四十三歳のときに完成した日銀本館です。私、小説の取材のため、一昨年にもこちらを見学させてもらったんですが、そのときこの本館は免震工事中。外壁も洗浄中で覆いがかかっていて、きちんと拝見することが叶いませんでした。本日、垢を落とした日銀本館を見られたのは感無量です。

正面から眺めると、意外と特徴が掴みにくい(?)日銀本店本館

万城目 よく見ると、1階部分と上階部分とで外壁の感じが違っていて面白いですね。1階部分はちょっと無機質で、どことなく刑務所みたいな雰囲気。

門井 これ、使っている石が違うんですよ。1階は北木石という、瀬戸内海の北木島で採れた石を用いています。北木石は質のよい花崗岩として有名なんですが、おそらくは輸送費がかかりすぎてお金が足りなくなった。それで2階、3階部分は低コストで調達できる湯河原の白丁場石を使っています。

万城目 あの、正直に言いますけど、日銀って意外と覚えにくいデザインだと思いませんか。お手本なしに「日銀を描け」と言われたら、「あれ、どんなだっけ」ってなっちゃいます。「東京駅を描け」だったら、とりあえず横に長く赤レンガを描いて、左右にドーム屋根を置いて、とイメージしやすいですけど。

門井 なるほど、中央のドーム屋根は奥に引っ込んでいるし、外壁は花崗岩で白くてシンプル。建物の特徴がパッと捉えにくいのかもしれません。

特徴的な緑色のドーム屋根は奥に引っ込んでいる

万城目 テレビの経済ニュースなんかでは日銀をヘリコプターで空撮して、漢字の「円」に見える建物の形を見せたりすることが多いですけど、でも、上空から見たからといって「日銀だ!」とピンとくるかといったらこない。あえていえば中央の緑色のドーム屋根が特徴らしい特徴なんでしょうけど、外見的インパクトは薄いですよね。

門井 ……いささか長くなりますが、日銀を弁護してもよろしいでしょうか。

万城目 はい。お願いします(笑)。

門井 日銀本館はいろんな意味で「ゼロからつくられた」建築なんです。たとえば後年の東京駅の場合、金吾はすでに六十一歳。帝大を辞し、民間の建築家として経験を積み、赤レンガを用いる「辰野式」スタイルも確立していました。ところが日銀の依頼が来たとき金吾はまだ三十五歳。帝大教授といっても手がけた建築は少なく、工科大学のほかは銀行集会所、渋沢栄一邸くらいで、国家のモニュメントになるような仕事はゼロ。いわば日銀が人生最初のビッグプロジェクトだった。

いっぽう日銀のほうも、自前のそれをゼロから建てるのは初めてでした。開業(明治十五年)以来ずっと、北海道開拓使の建物をゆずり受けて使っていましたから、ニシンの臭いがしたらしい(笑)。金庫の建てつけも貧弱だったでしょう。金吾にとっても日銀にとっても、乾坤一擲、大ギャンブルだったわけです。ついでに言うと、これだけ大規模に全国から石を集める建築も初めてだったでしょう。

さらに注目したいのは建設の時期。ちょうど日清戦争が始まった頃です。日本人が初めて経験する大規模な対外戦争のもと、国じゅうが不安にかられていた。何しろ天皇が大本営の置かれた広島に行き、国会議員も広島に行き、臨時仮議事堂で戦時予算を通したくらいですから。

万城目 官僚建築家として有名な妻木頼黄が、広島に臨時の議事堂をつくったんですよね、たしか。

門井 そうです。そういう戦時下につくられた日銀本館の地下階の金庫室の壁には穴が空いていて、いざとなったら日本橋川の水を引き込んで、金庫を水没させることができる。これはつまり、敵兵に襲われたときの策なんです。

万城目 広報の方は、非常時に保管している紙幣を無効化するための工夫であると説明してくれましたが、時代が時代ですから、当然、辰野は戦争のことを意識して金庫も設計したはずですね。

門井 そう思います。もっと言うと、負けたことを意識してですね。辰野家では、日銀本館の落成した3月22日を記念日として、毎年、弟子や親戚を大勢集めてどんちゃん騒ぎをしたそうですよ。

万城目 よほどうれしかったんですね。日本人として最初に中央銀行をつくったことが。

門井 金吾が亡くなった後、昭和に入ってから、じつは日銀本館は取り壊しが検討されたことがありました。その噂を聞きつけた夫人の秀子さんは、長男の隆に「見納めだから連れていってくれ」と頼んだそうです。そして本館をじっくり眺め、「これで思い残すことはない」と言ったとか。奥さんにとっても印象深い建物だったのでしょう。

万城目 最後にヘンな話で締めますけれど、さっき門井さんが日銀について熱く語ってくれているとき、門井さんが「金吾」と言うのが、時々「金庫」に聞こえたんですね。

門井 滑舌が悪くて(笑)。

万城目 それでふと思ったのは、彼がドケチだったら絶対に「辰野金庫」ってあだ名がついただろうなと。ところが実際は「辰野堅固」というじつに立派なあだ名がついている。明治の男として、仕事ぶりであだ名がつくのが立派だなと思いました。

日銀本館の中庭を歩く
単行本
東京、はじまる
門井慶喜

定価:1,980円(税込)発売日:2020年02月24日

文春文庫
ぼくらの近代建築デラックス!
万城目学 門井慶喜

定価:924円(税込)発売日:2015年05月08日

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