木戸幸一は、昭和の歴史を考える上で、欠かすことのできない存在である。
一九四〇年(昭和一五年)六月から、終戦後の一九四六年(昭和二一年)一一月まで、昭和天皇の最側近の一人として難局にあたった。戦後は極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で、A級戦犯として終身刑となったが、後に釈放される。
なかでも、よく知られているのは、一九四一年(昭和一六年)、第三次近衛文麿内閣の総辞職にさいして、陸軍の東条英機を首相に推挙したことだろう。
このほかにも、戦争に至る重要な岐路で、木戸は軽視しえない役割を果たしている。一つの例を挙げれば、二・二六事件の処理(後述)である。このとき木戸は事態の収拾に決定的な役割を果たした。さらには太平洋戦争末期、天皇の「聖断」による戦争終結の青写真を書いたのも木戸だったのである。
まず木戸が重きをなしたのは、天皇、宮中との関係においてだった。木戸は、欧州での第二次世界大戦勃発時から太平洋戦争開戦を経て、戦争終結時までおよそ五年半内大臣を務めた。内大臣として昭和天皇を直接補佐し、天皇の意志決定(裁可)に、多かれ少なかれ影響を与えたといえる。
内大臣は、戦前、政治全般について天皇を補佐する宮中重職で、天皇の最側近のひとつだった。天皇側近の宮中最重職としては、内大臣のほかに、侍従長、宮内大臣があるが、政治全般について天皇を補佐する内大臣が、政治的には最も重要な役割を果たしていた(侍従長は、天皇に直接奉仕する侍従の統括責任者。宮内大臣は、皇室関係事務全般を司る宮内省の長官。なお、内大臣、宮内大臣は、閣僚と同様「大臣」の名称がついているが、内閣には属さない宮中職である)。
また、木戸は日中戦争時から太平洋戦争開戦まで三度にわたって首相を務めた近衛文麿ときわめて親しい関係にあった。近衛を「表」の存在だとすれば、それと対をなし、近衛の政治活動を裏面から支えた。
さらに見逃せないのが軍部との関係である。木戸は、その政治的キャリアにおいて、元老として政界に大きな影響力をもっていた西園寺公望の側近として出発したが、早くから陸軍との個人的なパイプをもち、徐々に陸軍の考えに同調するようになる。同様に西園寺の側近として出発しながら軍部に接近する近衛とともに陸軍に協力し、宮中におけるその伴走者となっていく。その意味でも、木戸は昭和史における最重要人物の一人といえる。
また木戸は、政変時における後継内閣首班決定の新しい手続き原案を作成し、それがほぼそのまま正式に決定された(内容については後述)。どのような手続きで首相が決められるかは、政治上極めて重要な意味をもつ。そして、この変更は、のちに首相選定の主導権が元老から内大臣に移行していく一つの契機となる。そして自らも内大臣に就任、いわば西園寺の後継的存在となったといえる。
このほか、以下にみるように、満州事変・日中戦争をへて、太平洋戦争開戦から終戦に至るまで、様々な重要な局面で木戸は軽視しえない役割を果たしている。したがって、その思想と行動を把握することは、戦前昭和史を理解する上で欠かせないものといえる。
このように、木戸は昭和史を考えていくうえで極めて重要な存在であるが、意外なことに、木戸を正面からあつかった著作はきわめて少ない。
そのような現状を念頭に、本書では、木戸の内大臣期の動きに焦点をあて、それ以前の時期にも簡単にふれながら、彼の歴史上の役割を明らかにしていきたいと思う。
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