戦後74年を迎えた今夏、昭和初期の激動の時代を描いた歴史短編集『昭和天皇の声』が上梓された。著者は、時代小説でデビューし、ここ数年は近現代史に焦点を当てた作品も精力的に生み出している、中路啓太さんだ。
「近現代について書こうとすると、必ず昭和天皇が“裏の主人公”として関わってきます。大日本帝国憲法では、形式上、天皇が統治権の総攬者とされていましたから、人々は『天皇の思し召し』を夢想し、それを大義名分として自己の政治的意思を実現しようとしました。たとえば皇道派の青年将校たちなども、天皇の名の下に憲法を停止し、天皇大権をもって国家改造を行おうとしたわけです」
大日本帝国憲法下では、天皇の統治権は国務大臣の輔弼をもって行使されることになっていたが、三度だけ、天皇が余人の輔弼を受けずに国家の意思決定に関与したと考えられる出来事がある。田中義一内閣の総辞職、二・二六事件の収拾、そして終戦の決定である。本書では、それらに関係した人々と、天皇の実際の「思い」をめぐるドラマが描かれている。
ひとりの人間としての昭和天皇像
例えば、二・二六事件の模様を描いた「総理の弔い」では、襲撃された岡田啓介総理の救出劇が、側近たちの視点から展開される。天皇はこの事件を受け、蜂起した青年将校たちを叛乱軍とみなし、断固討伐を主張した。その意味で岡田総理を救い出した側近たちは、天皇の「思い」に応える行動をとったと言える。一方の青年将校たちは、クーデターが「天皇のための行動である」と信じていた。皮肉に満ちた結末を迎えたこの事件は、当時の社会のあり方を象徴しているだろう。
全編に共通しているのは、膨大な資料を元に、中立的な立場から登場人物たちを描いていることだ。
「戦前戦中の歴史を語るとき、『誰々が悪かったから、時代が暗くなった』という話になりがちです。しかし当時の非常に複雑な政治的、社会的システムを考えるとき、現代人が過去の人を簡単には断罪できないと思うのです」
最終話「地下鉄の切符」に描かれるのは、昭和天皇自身の苦悩だ。緊迫した情勢を前に、国家元首としていかなる行動が正しいのか。苦渋の決断を迫られる姿には、ひとりの人間としての昭和天皇像が浮かび上がってくる。
「天皇の苦悩を考えることは、日本の苦悩を考えることだと思います。そしてそれらは現代にもがっている。戦後の秩序は、戦前戦中の課題から決まったと思うからです。昭和を知ることは、今の時代を明確に捉えるきっかけとなるのではないでしょうか」
なかじけいた 一九六八年生まれ。二〇一五年『もののふ莫迦』が本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。『うつけの采配』『ロンドン狂瀾』『ゴー・ホーム・クイックリー』ほか、著書多数。