もっと優しく丁寧に接すれば良かった。
もっとたくさん話を聞いてあげられたら良かった。
それは仕方のなかったこと、となだめても、
後悔は私のそばにこの先もずっとあるでしょう。
けれどそんな思いとは別に、私にも奇妙に印象的な思い出があるのです。
微熱が続き、父の体調が優れないことがありました。
食欲もなく水も飲まず、ただただ弱々しく眠る父を心配しておりましたら、あるとき不意に気がついて、はっきりと不思議な夢の話をし始めたのです。
「ああ。今あんたはいいことしたよ。
あんたがうえで洗濯してくれたあぶくが、いっぱいしたに落ちてきてね。
真っ白いあぶくが、虹みたいに光って。
すごくきれいなんだよ、たくさん、雲みたいにいっぱいいっぱい。
こっちの人たちも、みんなあぶくに感謝しているんだよ。
とってもいいことしたねぇ。ありがとう。」 と。
目をつぶったまま、にこやかにお礼を言われました。
父の中で私は、一体どこにいたというのでしょうか。
「うえ」って?もしかして天国的な?
そこで私は、なにを洗っていたんでしょう。
私がどこでなにを洗ってたのか、あとで父に聞いてもわかりませんでした。
でもそのとき、その白くてきれいで虹に輝く世界で、
私は確かになにかをきれいにしていたようなんです。
『猫を棄てる』を読んで私が思い出したのは、
そんな個人的な、たわいもない思い出でした。
父本人さえ覚えていなかった、単なる熱に浮かされた夢の話です。
あの頃の自分のことを肯定したいだけかもしれません。
でもこのささやかな思い出が、現在の私を作っている小さなかけらのひとつになっている。
今では、父こそが空でなにかを洗っていて、ときどききれいなあぶくを落としてくれるように思います。
私の、「猫を棄てる」ならぬ「なにかを洗う」思い出です。
猫は棄てませんでした。
戻ってきた猫と、ほっとしたお父さんは、20数年の空白を超えて村上少年の心に不思議に強く留まりました。
そして、運んで、伝えて、引き継いでいく。
大丈夫。村上さんは猫を棄てていませんし、私もなにかを洗います。
樺島ざくろ https://note.com/kaba17
「#猫を棄てる感想文」コンテストについては、「文藝春秋digital」の募集ページをご覧ください。
また、感想文は「村上春樹『猫を棄てる』みんなの感想文」で、まとめて読むことができます。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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