- 2020.06.22
- インタビュー・対談
甲斐さやか「わたしたちはいま、どこに行こうとしているのか」
甲斐 さやか
一挙掲載『シェルター』執筆に寄せて
出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
『赤い雪 Red Snow』が評判を呼んだ映画監督が渾身の力で綴った小説『シェルター』。『別冊文藝春秋』2020年7月号に一挙掲載されたこの作品は、社会から隔離され、名前も立場も失ったことで初めて自我に目覚めていくひとりの女性の姿を描いた中篇小説です。
未知のウイルスに翻弄され、あっけなく昨日までの日常が失われてしまった昨今のような状況で読むといっそう身につまされるこの物語はなぜ、そしていかに生まれたのか。甲斐さんにその必然についてお書きいただきました。
3年ほど前、わたしは新作映画の撮影のために「役に近い経験をした人」に話を聞いてまわっていた。ネグレクトを受けた女性の役で、その気配に触れておくためだった。
ある若い女性からは「シェルター」「路上生活」「肉体労働」という言葉がスラスラとでてきた。彼女が敢えてスラスラ喋って見せたのは、彼女のふつうの中に「シェルター」や「路上生活」があるという、痛みの表れ、らしかった。
彼女の現実離れした日々について聞くうちに、なぜか、わたし自身の記憶と繋がってしまった。20代のときにスタッフとして関わった(10~20代はアングラ劇団や、インディーズ映画を手伝うなんでも屋だった)舞台の記憶で、それは「パレスチナ・キャラバン」という演劇プロジェクトによって上演された『アザリアのピノッキオ―7つの断章による狂詩曲―』 (作・演出=翠羅臼)という、平和が訪れない土地で、懸命に生きる人々の生に迫った作品だった。
出演者として、パレスチナから、屈強な戦士のような役者が日本にやってきた。彼らのにおいも、深いしわが刻まれた顔も、やけに生々しく感じられた。これこそが、彼らの現実の克明な記録だと思った。そのときわたしは初めて、「ほんとうは近くにいるのに見えなくなっている存在」に触れた。
シェルターについて思いを馳せたときに感じるむず痒さもまた、そこに起因するものなのではないかと思う。
舞台はとてもいい出来だった。でも、わたしにとってこのときの記憶は、時とともにひどくつらいものになっていった。