行き先のわからない車に乗っていた。
車はもう長いこと、田舎道を走っている。家らしきものは見当たらず、標識一つない荒涼とした景色を見送りながら、本当に保護なのだろうかこれはと、佐和子は思った。
隣に座る大柄の女は、自らをガイドと名乗り、佐和子を連れ出して車に押し込んだ。薄い作り笑いでトイレを気遣い、飲み物を差し出してもきたが、監視役なのは明らかだ。
いや、ガイドが怪しいのなら、ガイドを呼んだ警察や警察病院の医師も怪しいことになり、どこまで疑えばいいのかわからなくなる。もとよりいまの佐和子には、逃げ出すような気力もなかった。
この十日間に佐和子を襲った非現実的な事象を挙げれば切りがなく、狐に摘まれたような信じ難いことに対する耐性ができすぎて、今日も流されるように車に乗り込んでいた。
「もうすぐです」
不意にガイドが声をかけた。
制服姿の運転手が、ミラー越しの佐和子に好奇の目を配っている。大丈夫。これが誘拐ならば、タクシーを利用するはずがない。言い聞かせても不安は消えない。なにせ行き着くところまで来てしまったのだから。五十一歳にしてすべてを剝奪される可能性など、恵まれた主婦だった頃は頭をかすめもしなかった。
恐怖に飲まれずに、立ち止まって潮流を見極めなければならない――いつかの日の、夫の言葉を思い出した。
この先、夫と再会することはあるのだろうか。彼のしたり顔を思い浮かべてみても、滲んだ水彩画のように、既に輪郭がぼやけはじめている。
杉林を抜けた先に、のっぺりとした白壁が見えた。
佐和子の視界に、ゆっくりと壁が迫ってくる。車は音を立てずに静かに止まった。メーターを見遣ると、四万七千円だった。
ガイドは運転手に金を払い先に降りると、後方トランクに回った。佐和子は開いたドアから壁を見上げる。
高塀に囲まれた立方体の建築だった。モダンハウスとも言い換えられるかもしれないが、瞬時にそれを打ち消す様な、禍々しい違和感も覚えた。建築だけがまわりの自然から浮いている。雑味のない純白ペンキを塗りたくっただけでも十分に暴力的な建築と言えるが、佐和子の違和感はもっと根本的なものからきていた。
窓と出入り口が無い。看板や表札の類も見当たらなかった。壁にしか見えなかったのは、寧ろ当然といえた。
「お客さん、地図の紙お返しします」
運転手が、佐和子の顔を憐れむように見つめていた。彼に助けてと言うべきだろうか。
運転手が差し出す紙を受け取ろうとした時、ガイドの手が横から伸びて、それを奪い取った。
「はい、あなたの荷物ね」
代わりにガイドは白い紙袋を渡すと、さっさと建物に向かって行く。躊躇う時間も与えられず、それが怖くてついゆっくり歩いてしまう。佐和子の背後から、遠ざかるタクシーの音が聞こえた。