読者の多くは、読む前からこの作品集を、本年(二〇一〇年)四月九日深く惜しまれつつ他界した作者の「自伝的小説」として手に取られることであろう。あるいは読後にそれが実感としていっそう深まるかもしれない。
確かにそうには違いないのだが、しかし、井上ひさしというのは稀代の物語作者であることを忘れてはいけない。
これは稀有の「物語作者」がどのようにして誕生したか……その恐るべき辛酸の過程をつぶさに描いた「物語」なのである。
収録された作品は、一九七二年から翌年にかけて、季刊(当時)の「別册文藝春秋」に「汚点(しみ)」「四十一番の少年」「あくる朝の蝉」の順序で発表された。
三篇の奥底に隠された秘密を解き明かす共通のキーワードは「嘘」だ。
発表順に「汚点」から見ていこう。
冒頭に紹介されるのは、「元気ですから安心してください」という書き出しに始まる弟からの葉書で、受け取った「ぼく」の目にはこう映る。
汚点(しみ)さえなければ、それはいつも通りの葉書だった。
零(こぼ)れ落ちたラーメンの汁か、垂れ落ちたレバー煠(いた)めの汁か、それはむろん分らなかったが、淡い黄褐色の汚点を数個ばら蒔(ま)かれた葉書は、はじめは南太平洋地図のように見えた。オーストラリア大陸そっくりの大きな汚点の上方に、ソロモン諸島やサモア諸島と見合ういくつかの小さな点々。しばらく見つめていると、出し抜けに南太平洋地図は大小の黄信号の群れに変り、「おまえの弟になにか起ろうとしているぞ、辛いことが起ろうとしているぞ」と、ぼくに警告を発しはじめた。
辛いとか苦しいとか悲しいとか……そういった直接的な言葉の表現は、でき得るかぎり抑制し、かわりに間接的な比喩を大袈裟なまでに誇張していくと、汚点(しみ)で描かれた南太平洋地図の向こうに、百万言を費やしても語りきれないほどの――弟の辛さや苦しみや悲しみが克明に見えてくる。
井上文学独特の対位法が、すこぶる鮮やかに発揮された一節だ。
夫を失ってから、旅回りの浪曲師に全財産を騙し取られて、東北のあちこちを転々とした後、岩手県東海岸の港町で慣れない屋台の飲み屋を始めてひとり悪戦苦闘している母親と離れ離れになって、弟は身売り同然に預けられた岩手県南部の小都市のラーメン屋康楽でこき使われており、中学三年の「ぼく」は、それ以前から仙台市郊外のカトリック修道院に付属する孤児院に収容されて、図体の大きい乱暴者の高校生船橋とその仲間たちによる――次のようないじめに遭っていた。