コラム・エッセイ

【7月の注目】担当編集者の一押しコメント! クレア・キップス 梨木香歩(訳)『ある小さなスズメの記録』

梨木香歩の名訳が光る、世界的名作

『ある小さなスズメの記録』(クレア・キップス)

ある小さなスズメのこと

梨木香歩(作家)

 クロアチア、ダルマチア地方の、アドリア海に浮かぶ島々の中に、メジャーな観光ルートから外れた、ショルタ島という小さな島がある。海水の透明度が高く、小さなハーバーに並んでいるボートの脇、きらきら光る海底の砂の上を、魚が群れをなして泳いで行くのが見える。空の青と海のエメラルド色と石灰岩の白。野山を行けば踏みしめた靴の下から野生のハーブが香る。

 先月、その島を、車で走っていたときのことだ。カーブの多い道の、そのカーブの一つを曲がり切ったところで、意志的な顔立ちをした、痩せてはいるが筋肉質の女性がジョギングをしている最中に出会った。タンクトップとショートパンツから、陽に焼けて逞しい四肢が汗を滲ませて現れていた。村人が静かに生活を営んでいる島であるが、夏の間の住まいとして本土やヨーロッパの他の国から人々がやってくる。その中の一人であろうと思われた。潮風に晒された、北欧風の淡いブロンドの髪。眩しいものを見るように、私はその姿に打たれた。女性には、右肘から下がなかった。

 その存在があまりにも堂々として輝かしいので、まるで右肘から下の欠損まで、その「輝かしさ」のなくてはならない条件の一つのようなのであった。

 翻訳に取り組んでからずいぶん時間がかかってしまったが、今秋上梓の運びとなった、『ある小さなスズメの記録――人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯』(クレア・キップス著 文藝春秋刊)の主人公のスズメにも障碍があった。これは生まれつきのもので、翼の羽が一部、扇のように突っ立っていたのである。それに脚の蹴爪もいびつだった。

 まだ目も開かず、羽毛も生えていないとき、彼は元ピアニストのキップス夫人の家の玄関先に「捨てられて」(孵化した彼を、育たないと見た両親が、どうも巣から落として育児放棄をしたのではないかと思われた)いた。第二次世界大戦中のことで、そこから始まる十二年と七週、足すこと四日の日々の記録と夫人の随想が、本書の全てである。翻訳に携われたのは幸運であったと思う。私はキップス夫人その人にもスズメにも魅了された。

「生まれたばかりの赤ん坊が玄関先に置き去りにされていたら、見捨てるわけにはいかないだろう」と、夫人はその持ち前の博愛精神から誠実に世話をするが、まさか彼が生き延びるとはそのとき思わなかったらしい。しかし、小さいながら、彼の生命力――というより生きようとする意志――は驚嘆すべきものだった。やがて夫人の日課を心得、日々のお茶をお相伴し、昼寝のときは彼女を先導してベッドへ招くまでになった。夫人とともにベッドで眠るのはとりわけ彼の喜びで、そこを自分の場所と定めていたらしく、夫人の女友達が泊まりに来て、彼の定位置と思われた場所に入り込むと、スズメはこのあってはならぬ領土侵犯、不躾な厚かましさに激しく抗議し、ついにはベッドから追い出した。

ある小さなスズメの記録クレア・キップス 梨木香歩 酒井駒子

定価:本体650円+税発売日:2015年01月05日


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