本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
日本国憲法誕生まで、政府とGHQとの言葉を巡る、息詰まる攻防の物語。

日本国憲法誕生まで、政府とGHQとの言葉を巡る、息詰まる攻防の物語。

文:大矢 博子 (書評家)

『ゴー・ホーム・クイックリー』(中路 啓太)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『ゴー・ホーム・クイックリー』(中路 啓太)

 本書ではこの戦争の放棄の条文について、初訳からどのように変わっていったか、順を追って紹介している。そこに込められた思い。訳者の苦労。それだけでも充分読ませるのに、そこに外交上の思惑が入る。それがもうひとつの読みどころ、〈駆け引き〉だ。

 日本のプライドを示すため、自主性と誇りを守るため、何度もその表現に手を入れられた憲法九条。だがそこに使われた言葉には、ある仕掛けがあった――というのが後半で明らかになる。ミステリの叙述トリックを地で行く展開に驚かされた。本書の白眉と言っていい。

 これらの過程を、著者は決して一方に肩入れしたアジテーションにならぬよう、徹底して冷静な筆致で紡いでいる。膨大な資料を下敷きに(たとえば帰ってこない夫を心配して佐藤の妻・雅子が街で電話を探し回るエピソードは彼女の文章に残っているという)、ノンフィクションといってもいいくらいに事実を追っている。そこに佐藤達夫という日本とGHQの板挟みになった官僚の思いを綴ることで、彼らがこの憲法に込めた思いが浮かび上がってくるのだ。思いを込める、思いを伝えるという一点に於いて、本書がノンフィクションではなく小説として書かれた意義がある。

 タイトルの「ゴー・ホーム・クイックリー」とは当時の吉田茂外務大臣(後に首相)の言葉で、GHQの頭文字にひっかけた洒落である。吉田は、とりあえずGHQの気に入るように作ってとっととお帰りいただき、占領から開放されてからあらためて国の形を整えればいいという立場だった。しかし、実際には新憲法施行後も占領は続き、国際情勢の変化もあって、日本国憲法は今にその姿をとどめている。

 施行から七十年以上経った今、この憲法を考えるとき、そこに使われた文言にどんな意味があり、どんな思いが込められているのかを本書で知る意味はとても大きい。ラスト近くの白洲次郎の言葉に背筋が伸びる思いがしたのは、私だけではないはずだ。

 

 これ以前は『獅子は死せず』『うつけの采配』『もののふ莫迦』(いずれも中公文庫)など熱い戦国小説で多くのファンを獲得していた中路啓太だが、二〇一六年刊行の『ロンドン狂瀾』(光文社文庫)を境に、昭和史に舵を切った。

 本書の後、岸信介を描いた『ミネルヴァとマルス』(KADOKAWA)、『昭和天皇の声』(文藝春秋)を上梓。中路啓太が昭和という時代から何を汲み取ろうとしているのか、本書と併せてお読みいただきたい。

文春文庫
ゴー・ホーム・クイックリー
中路啓太

定価:968円(税込)発売日:2020年09月02日

ページの先頭へ戻る